マニアックウィーン紀行(第4日目)

たっぷりの朝食後、チェックアウトの時間を確認してから小散策へ。晴天で気持ちがいい。人気の少ないウィーン運河沿いの散歩道を歩いて、カイザーバート水門監視所に。この監視所もオットー・ヴァーグナーの作品で、小さいながら彼らしい独特の存在感。ただ、残念ながら、今は使われていないこともあり、少なからずスプレーペンキの落書きが。
そこから少し市電に乗り、アウガルテン公園に。入ると、目の前に巨大な円筒形のコンクリートの建物が。第二次大戦時の高射砲台の跡だそうな。その他、ヨーロッパで二番目に古い陶器工場などの外観を見るなどして、しばし歩き回る。
ホテルに戻り、チェックアウト・出発。途中、下道だけで国境を越えようとしたが、何度やっても最後は高速道路に入ってしまうことが分かり、仕方なく高速チケットを購入。ところが、結局チェックはなし。次回は、最初から買うことにしよう。
なかなか濃い4日間。それにしても、ウィーンは戦災を受けていないため、本当にいろいろなものが良く残っている。まだまだ探検の余地がありそうで今後が楽しみだ。

マニアックウィーン紀行(第三日目)

昨日から天気が良いせいか、急に暑くなる。
朝一番は、フロイト博物館に。フロイトナチスに追われるまで住んでいたアパートで、診察室も兼ねていたところ。町並みの中に何気なく入口が。中学生から愛読していた「心の話」という本の半分くらいがフロイトの評伝で、このアパートの入口や内部の写真なども載っていた関係で、実物にちょっと感激。
そこから、オーストリア国立銀行の脇を通って、病理・解剖学博物館へ。ウィーン大学病院の敷地内にある円筒形の建物だが、18世紀末に建てられ精神病棟として使われていて、今は病理学資料、つまり摘出臓器とか奇形胎児などの資料館になっている。まあ、ちょっと怖いもの見たさの部分があるが、ひと昔前の医学の雰囲気を伝えていて興味深い。それにしても、水頭症の子供の全身骨格標本があったが、頭蓋骨がビーチボールのように大きく、衝撃を受ける。考えてみると、我ながらマニアックだと思うが、「地球の歩き方」には、この他にも犯罪博物館とかベーカリー博物館といった面白そうな場所がまだまだ載っている。ウィーンもなかなか奥が深い。
そこからリングに戻り、市庁舎・ブルク劇場・国会議事堂などの広壮な建物を冷やかす。それにしても、この辺は観光客であふれている。3つとも白亜の巨大な建物だが、以前来たときの記憶はまるでなし。こんなに大きかったとは。
近くのバス停で時間を確認してから、市電に乗ってオペラ座の近くのラーメン屋を訪ねる。しかし、ガイドブックの地図には名前のみで解説が無く、何となく不安。行ってみると案の定つぶれていた。丁度はす向かいに中華料理屋があったので、麺類を食べる。この辺はオフィス街のようだが、休日にもかかわらずここだけ店を開けていて、中国人は本当によく働くと思う。
市電で先ほどの停留所に戻ったが、まだ時間があるので自然史博物館に。有名な美術史博物館と対になっている宮殿のような豪華な建物。マリア・テレジアの夫だった神聖ローマ皇帝フランツ1世のコレクションが元だそうだが、とにかく物凄い数の鉱物。彼にこんな趣味があったとは。ちなみに、このフランツ1世、偉大な妻のただのお飾りと思われているがなかなかどうして。政治上のアドバイザーだっただけでなく、利殖の才があって国庫を大いに潤したとか。何よりも夫婦仲が良く、良すぎて子供を16人も儲け、それがマリア・テレジアのハンディになったとも評されている。
しかし、一番のお目当ては、「ヴィレンドルフのヴィーナス」。旧石器時代の一種の土偶だが、小学生の頃から眺めていた美術図鑑の西洋編の始めに出てくるもので、実際に見るとやはり感慨あり。しかし、本当に小さい。まあ、人の握りこぶしくらいか。
後は一般の科学博物館と同じく、剥製やアルコール漬けの展示だが、本当にあきれるほど広く、展示アイテムも膨大な数。バスの時間があるので駆け足で眺める。しかし、時間があったところでどうなっただろうか。
停留所に戻りバスに飛び乗って郊外に向け約20分。今回の旅のお目当ての一つのアム・シュタインホーフ教会に。ここは、広い病院のキャンパスの中の丘の上にある教会だが、オットー・ヴァグナーの19世紀末建築の一つの極致とも言われている。ただ、ガイドブックによると土曜日の15時からのガイドツアーでしか公開しないらしい。バスは大込みだが、終点の一つ前の目的の停留所で大半の人が降りる。皆目的地は一緒というわけ。病院はなだらかな斜面に建物が点在していて、のんびりした雰囲気(後でよくよくガイドブックを見ると精神病院ということでいささかびっくり)。
丘を登っていくと、異様な雰囲気の建物が。これがアム・シュタインホーフ教会で、外観も内部も奇抜そのもの。しかし、見学はガイドツアーではなく、ドイツ語のプレゼンが小一時間続くだけのようで、さすがに途中で出てしまった。その代わり、帰りのバスは空いていて楽をさせてもらった。市の中心に戻る。
まだまだ時間があるので、ミュージアムクォーターにあるレオポルド美術館に。ミュージアムクォーターというのは、旧王宮の厩舎だったところに10以上の美術館やイベント会場などが集まったところ。建物群に囲まれた中庭にはやはり物凄い数の人が。しかし雰囲気としては観光客というよりも市民が多い感じ。
レオポルド美術館は、昨日訪ねたヴェルデベーレ上宮と同じくウィーン世紀末美術中心のコレクション。ただ、20世紀に入ってからの画家の作品も多く、勉強になる。それにしても、20世紀に入ると世界中の美術が同じような傾向になるのを改めて感じる。
あと、ゲルストゥルという20世紀初め頃の夭折画家の作品が多数あったが、評伝を読んでいて衝撃を受ける。彼は、シェーンベルク(十二音音楽有名ですね)家と親しく、作曲家の有名な肖像を描いてもいる。しかし、そのうちにシェーンベルクの奥さんのマチルデと深い仲になり、ついには駆け落ちをしてしまうものの、シェーンベルクの弟子のアルバン・ベルクなどが奔走・説得し、マチルデは家に戻る。そして、ゲルストゥルは25歳で命を絶ったとのこと。驚いたのは、レコードジャケットなどで見知っていたシェーンベルク肖像画にそんな来歴があったことや、音楽史の巨匠たちが苦しんだり奔走したりしていたこと。まあ、知っている人には常識なのかも知れないが、まだまだ不勉強であることを自覚。
時間を気にしながら、王宮の一角にあるアウグスティーナー教会へ。案外小さい。ここは王族の結婚式が行われてきたことで有名な宮廷教会だが、同時に王族たちの心臓を安置している場所でもある。何でも、ハプスブルク家の慣習では、遺骸はカプツィーナー教会に、心臓はアウグスティーナー教会に、内臓はシュテファン寺院に安置するのだそうな。心臓自体は地下にあって見ることは出来ないが、教会の一角に、地下に降りて行く人々のレリーフがある。こういうところで結婚式というのもどんなものなのか。まあ、中世以来の意識である「メメント・モリ(死を意識せよ)」ということか。
地下鉄を乗り継いで、フォルクスオーパーに。かなり町外れ。地下鉄を降りるとチベットレストランなるものがあって驚かされる。
ここフォルクスオーパーは、シュターツオーパー(国立オペラ座)がきらびやかな装飾に埋まっているのに比べ、「市民オペラ座」というだけあって、外装・内装ともほんとに簡素。まるで映画館のよう。
演目はオッフェンバックの「天国と地獄」。まあ、オペラといっても完全なコミックオペラで、たびたび笑いが起こる。ドイツ語なので一人笑えないのがちょっと残念。実は、天井近くに字幕が出るのだが、これが実にどうも。オペラ自体はフランス語なので、歌の間はドイツ語字幕が出るが、結構素のセリフが多く、これはドイツ語なので、その間は英語の字幕になる。ところが、これが大変な手抜きで、「今、こんなことを話しています」という程度の紹介。まあ、こんなものか。プログラムも買ってみたが、ドイツ語主体で、最後の方に英語と日本語であらすじが載っている。もっとも、出演者を知るために買ったのでそれほどがっかりはしなかったが。ちなみに、ヨーロッパに来るときに、「オペラガイド130選」というあらすじ集を買い込んできており、どこに聴きに行くにも手放せない。それにしても、写真がふんだんに入っている豪華本なのにたった1400円であるのにいつも感心する。なお、この本によると、オッフェンバックは最近日本以外で再評価されているそうな。確かに聴きやすく、かつしっかりした音楽ではある。
オペラ劇場では通常、幕間に飲み物や軽食を売っているものだが、フォルクスオーパーは極めて貧弱でちょっとがっかり。帰りにホテル近くで食べるところを探したが、さすがに10時を回るとファストフード以外は飲み屋ばかり。結局、チャイニーズのテイクアウトがあったので、ここで仕入れることに。それにしても、ウィーンに来てからチャイニーズばかり食べている。

マニアックウィーン紀行(第二日目)

昼食を摂れる保証が無いので、ホテルでしっかりと腹ごしらえをして出発。ホテル近くのドナウ運河沿いに少し歩くとウラニ天文台が。ここは20世紀始めにできた天文台だがもちろん今は機能しておらず、今はプラネタリウムになっている。しかし、古風な雰囲気が何とも言えず良い。
さらに少し歩いて、郵便貯金局に。ここは19世紀末の有名な建築家オットー・ヴァーグナーの代表作の一つで、内部に当時銀よりも高価だったアルミニウムがふんだんに使われており、現代の目から見ても非常にモダンな雰囲気。今も現役で使われている。実は新婚旅行の際にも訪れているのだが、その時よりも小ぢんまりした印象。記憶はあてにならないものだ。貯金局を出ると、目の前に大きな銅像が。ウィーンは銅像が多い町として有名らしいが、これはラデツキー将軍の像であった。
そこからさらに10分ほど郊外に向かって歩く。途中、空の観光馬車と何台も行きかう。朝早い時間から考えると、どうも郊外から中心街への出勤の途中のような感じ。
次の目的地はフンデルトヴァッサーハウス。ここは、1985年に完成した市営アパートだが、設計したフンデルトヴァッサーはウィーンのガウディと言われるだけあって、実に奇天烈な雰囲気。色彩がカラフルなことに加え、壁や柱、はては通路や前の歩道までうねっていて、見ていて楽しくなってしまう。そこから徒歩数分のところにある美術館のクンストハウスウィーンに。ここはフンデルトヴァッサーの美術館。彼は本来画家で、日本人女性と結婚したこともあり、「百水」なる雅号まで持っているなど、日本にもゆかりが深い。面白いのは、展示されている作品の中に、日本の浮世絵の彫師・摺師による版画が多数あること。絵自体はポップであるが。建物自体も彼の手が入っており、不思議な雰囲気。写真史の企画展も含め、たっぷり2時間以上過ごしてしまった。
近くに中華料理店があったので昼食。そこから近郊鉄道に乗ったが、行き先を間違えてしまい、次の駅で降りて引き返すはめに。しかし、怪我の功名で、その駅からは遊園地であるプラーターが近く、例の大観覧車も間近に見えた。
気を取り直して、南駅に向かう。途中、検札があり、例のウィーンカードを見せるとお咎めなしで、一安心。
南駅で降りて、公園をずんずん歩くと軍事史博物館が見えてくる。博物館といいつつ、物凄く豪華な造りで、ほとんど宮殿。かつ何ともいえない迫力。入ると、エントランスホールは軍人の彫像で埋まっている。中世以来の武器とか甲冑とか軍服などが展示されているが、ハイライトはマリア・テレジアとかナポレオン戦争の時代、それと第一次・第二次大戦について。特に、サラエヴォ事件で暗殺され、第一次大戦のきっかけとなったフランツ・フェルディナント皇太子が狙撃された時に着ていた血染めの軍服とか、乗っていた車などがあり、まあ、これを目当てに行ったようなもの。興味深かったのは、第二次大戦の扱い。オーストリアは、ナチスに征服されたとも、ドイツの一部として戦争を戦ったとも言えるわけで、何となく中途半端な印象。ナチスによる合邦前の独裁者のドルフスについてもかなりの展示スペースが割かれており、帰ってから改めて調べることに。
公園を反対方向に10分ほど歩いて、ベルヴェデーレ宮殿に。ここは広い敷地というか庭園の中に上宮と下宮という二つの宮殿(今では美術館になっている)があり、まず上宮に。ここは、クリムトとかエゴン・シーレとかオスカー・ココシュカといったウィーン世紀末美術のコレクションで有名で、ここもお目当ての一つ。初めて日本でクリムト展を見たのはもう30年以上も前か。それ以来のファンなので。しかし、あいにく団体客が多く、特にクリムトの絵の前で長々と解説が続いてちょっと辟易。まあ、それ以外にも広範なコレクションがあったので行きつ戻りつしながらやり過ごす。
その後は下宮に。こちらは、バロックとか古典派中心。ダヴィッドによるナポレオンのアルプス越えの有名な騎馬像が何気なく飾ってあるのに驚く。やたらプリンツ・オイゲン公の肖像画が多いと思ったので改めてガイドブックを見たら、ここは公の離宮であった。みな立派な肖像画だが、頭の中でかつらを取ってみたら、ただのおじさんでちょっと苦笑。
また少し歩くと、駐車場の入口の脇に「見どころ」マークがあるので入ってみると小ぶりな宮殿が。説明書を見ると、シュヴァルツェンベルク家の屋敷とか。シュヴァルツェンベルク家といえば、前に行ったチェコのチェスキー・クロムルフとかクトナー・ホラの殿様ではないか。特に前者ではずいぶん大きな城を構えていたものだが。考えてみると、ちょうど江戸時代の国元と江戸屋敷の関係と同じであって、そんなものが今ここにあるというのが非常に面白い。ちなみに、「見どころ」マークとは赤白の旗を組み合わせてウィーンのWの形にしたもので、観光名所であることを表わしている。
駐車場を出ると、今度は交差点に大きな噴水付きの記念碑公園が。高い記念碑の真ん中には星がついており、てっぺんには兵士の像が。どうも、ソ連軍の記念碑らしい。実は、第二次大戦時に旧ソ連に「解放」された町には、けっこうこの手の碑がある。しかも、しばしば町の一等地だったりする。しかし、ここのは中心ではないものの特大だ。
そして、もうリングに戻ってきた。ここから地下鉄と市電でハイリゲンシュタットまで行くのだが、一旦途中下車し、ゴミ焼却場を見に行く。ここは朝見たフンデルトヴァッサーの代表作の一つ。ここも色彩と言い、形と言い奇抜そのもの。実は前にウィーンに車で来たときに車窓から見えて、非常に気になっていた建物。じっくりと眺めることができてしばし幸せな気分。
市電に乗り換え、ハイリゲンシュタットに。ハイリゲンシュタットといえば、耳の聞こえなくなったベートーベンが遺書を書いた場所として有名だが、相当なはずれかと思ったら市の中心から5キロも離れていないことにいささか驚く。まあ、昔の東京だって、近衛文麿の屋敷があったころの荻窪が相当な田舎だったわけで、同じようなものか。特に、馬車が主要な交通機関だったころには町の規模もおのずと規定されていたということだろう。
ハイリゲンシュタットはちょっとひなびていて、ちょっと高級な感じもする、しかし普通の住宅地。ここには、ワインを飲ませるホイリゲがいくつもある。店のあたりをつけてから、さらに10分ほど歩いてベートーベンの散歩道を見に行く。小川の両側に散歩道があるが、普通の住宅が並んでいて玉川上水のミニチュアのような感じ。もちろん、昔はもっと開けていなかったのかもしれないが、歩きながら「田園」を構想した、という風情にはなかなか見えず。
ホイリゲに戻る。マイヤーという、ベートーベンが第九を作曲したといわれている家の跡だとか。中庭が席で、雨が降っていないことに感謝。席を探したが、あいにく中年男性7人くらいのグループと相席となってしまった。すると、彼らが話に入れと誘ってくる。聞いてみると、ドイツ西部のケルンに近い町の幼馴染によるボウリングクラブでウィーンまで旅行に来たとか。筆者が一人旅でホイリゲに来たのが珍しいらしく、ドイツ語で「シシィでも探しにきたんじゃないか」といった意味の冗談を言っているようだったので、「じゃ、紹介して」などと応ずる。メンバーのうち二人が日系企業勤務なのに驚く。つまみのパンを勧められたので、こちらもポテトフライをとってお返しをしたりする。そのうち、両親と身障者の息子の3人連れも相席になり混んで来たので、ワインの小カラフェ2杯で退散する。どうも、ゆっくり食事というよりも、飲む場所のよう。8時過ぎでやっと夕方の雰囲気。
市電で帰ったが、さすがに腹が減り、ホテルの近くでケバブ仕入れて帰る。

マニアックウィーン紀行(第一日目)

今回は車で。
チェコからオーストリアに入ると道路が格段に良くなる。天気も朝方の曇天から晴天になり、何だか「西側」気分を味わう。ただ、国境からウィーンまではそんなに距離が無いため、有料(ステッカーを購入してウィンドウに貼る必要あり)の高速道路を避けようとしたのに、なんとなく高速道路に入ってしまった。それならば途中のガソリンスタンドで買おうとしたらいつまでもスタンドが無く、またCDを聴いていたのに突然放送が入ったりして焦る(金を払えという警告かと思った)。結局、ウィーンの宿に到着したのは午後二時くらい。
チェックイン後、ホテルで「ウィーンカード」を買って、出発。これは、72時間公共交通機関が乗り放題でかつ美術館などが割引になる優れものだ。もっとも、大体の街ではこの種のカードで入場料がただになったりするのだが、さすが観光で食っている(?)ウィーンだけあって、少し割引になるだけらしい。早速、地下鉄でシュテファン広場に。教えられたとおり、使用開始の印に、駅で改札するが、刻印された数字が日にちとも見えず、少し不安になる。
シュテファン広場は、もの凄い数の観光客。季節も良く、カトリックの祭日のため、観光シーズンということらしい。
最初に、ユダヤ博物館に。渋いと思われるだろうが、ヨーロッパに来てから強制収容所を沢山訪れ(ポーランドではアウシュビッツ、マイダネク、グロス・ローゼン、ドイツではダッハウ、ベルゲンベルゼン、ノイエガンメ、ザクセンハウゼンチェコではテレジーンなど)、また、4月にはベルリンのユダヤ博物館(これは本当に大規模でかつ勉強になる施設)、5月にはアムステルダムの博物館にも行ったりしているので、ここでも何か勉強になるかと訪れた次第。残念ながら、この博物館は規模も小さく、展示内容もそれほどではなかったが、特別展でバルカン半島ユダヤ民族の歴史の展示があり、ユダヤ人が本当に津々浦々に分布していたことに改めて驚かされる。また、最上階はユダヤ祭具の倉庫になっており、おびただしい収蔵品がそのまま展示されている。中には子供用のおもちゃ的な祭具もあり微笑を誘われたが、所有者たちの運命を考えると笑ってもいられない。
その後、歩いて王宮に。途中に、「ドロテウム」という立派な建物があり、後で調べるとオークション会社だそうな。
王宮はオーストリア帝国の宝物館が有名だが、ここは何回か行っているので、今回は図書館であるブルンクザールを訪れる。図書館といっても、元王室の持ち物だけに、高い天井に重厚な造り。ここでも特別展をやっており、テーマは中世におけるキリスト教イスラム教・ユダヤ教知識人の交流についてで、そうした時代の本を展示しながらいろいろな分析を加えている次第。筆写本のみの時代にいろいろな知的交流が行われていたことに思いをはせながら、よく見るとこの図書館自体がそうした稀覯本の収蔵庫のような感じであり、王権としての権威の誇示装置となっていたようにも思える。
次に、モーツァルトハウス・ウィーンに。ここは、ウィーン市内に残る、モーツァルトが住んだことのある唯一の家、というかアパートで、モーツアルト関係の展示館になっている。
もっとも、説明にもあったが、この建物の300年近くの歴史の中で、モーツァルトが住んだのはわずかに3年弱であり、そのため彼をしのぶよすがは何も残っていないのが実際だ。何でも、モーツァルトは30回、ベートーベンに至っては70回以上引っ越したそうで、特にベートーベンの場合はほとんどが家主とのいさかいが原因だったとか。
展示の中で最も勉強というか印象に残ったのは、モーツァルト時代のハプスブルク宮廷にいた「宮廷ムーア人」について。ムーア人というのは、そもそも北アフリカベルベル人のことだが、どうも黒人を含めた肌の黒い人々一般を指していたらしい。で、18世紀当時、宮廷に使用人としてムーア人を置くのが流行していたそうな。で、モーツァルトの時代にも一人の宮廷ムーア人がいたわけだが、彼は子供の頃、ナイジェリアで捕らえられ、奴隷に売られてきたものの、高い知的能力で宮廷のサロンの一員にまでなり、モーツァルトとも交流があったということ。ところが、彼は死後、娘の懇願にもかかわらず剥製にされ、かつ珍奇な格好をさせられて宮廷内の博物館に陳列されてしまったとか。そして、1848年の3月革命のさなかに焼失してしまったのだそうな。「貴人に情なし」という言葉があるが、当時(そしてひょっとして今でも)のヨーロッパ人の他人種に対する感情を垣間見た気にさせられる。
夕食に、「プラフッタ」という、ウィーン料理の老舗に行く。「ターフェルシュニッツ」という、牛肉のスープ煮込みが名物で楽しみにしていたが、残念ながらウェイターたちの動きが悪く、メインディッシュと付け合わせが一緒に出てこないなど、ちょっとどうかと思う。他のテーブルでもトラブルになっていた。料理自体はうまかったので余計残念。
食後まだまだほんのり明るい中、徒歩で楽友協会ホールに向かう。実は直前にもかかわらずマウリツィオ・ポリーニのピアノ独奏コンサートチケットが取れたのだ。楽友協会ホールはニューイヤーコンサートが行われることで有名なホールで、写真で見ると豪華だが行ってみるとただの木造のぼろいホールだ。造りはほとんど学校の体育館のようで、一階はただの平面だし、二階席は向こう正面はひな壇になっているものの、側面は一列目のみステージが見え、2列目は怪しく、3列目はもう絶対に見えないというありさま。筆者は二階席の2列目で前にかがむと見えただけましか。ちなみに、一階席の後ろには立見席があり、大勢つめかけていたが、きっと一列目しか見えないと思われる。
ポリーニは猫背でひょこひょこと出てきて気弱そうな愛想笑いをしてくれる。何だか、今の天皇さんのような雰囲気。しかし、演奏が始まると見違えるような迫力でいすの上で体をはねながら弾く。とはいえ、筆者にはピアノ独奏のみというのはちょっと厳しい面あり。運転の疲労と夕食のアルコールと前かがみの無理な姿勢などでしばし睡魔に襲われそうになる。
ともあれ、ウィーンの第一日目はこうして終了。

ロシアにおける文系と理系

本当に久しぶりのエントリーなんですが、言い訳せずさっと書いてしまいましょう。

最近、機会があってロシア(サンクトペテルブルク)に行ってきました。

昔からの知り合いにフルアテンドしてもらい、本当に助かりましたが、実は今、ネオナチの襲撃のリスクがあり、うっかり町を歩けないらしいんです。ですから、ドア・ツー・ドアでの移動ということになります。

ところで、いろいろな見どころを訪問してわかったんですが、今でも旧ロシア時代のアイドルはピョートルとエカチェリーナの両大帝です。

さて、実は、ロシア人、ロシアのことを全然信じていません。特にロシア製品のことを信じていない、というのがインテリの平均的な態度のようです。実際、おみやげにロシア製ビールを買おうとしたら、その知り合いに瓶入りを買うように勧められました。彼は缶ビールを日本に持っていこうとして溶接部分がはがれてえらい思いをしたそうなんです。

しかし、ロシア人はロシアについて強烈な民族意識を持っています。一つのキイワードは、「精神性」ではないかと思います。とりわけ、ロシア正教は、ローマ〜コンスタンチノープルを経て、モスクワを第三のローマと位置づけているようですし、町のど真ん中に大きな白亜の修道院を見たときには、彼らの民族意識の由来を見た気がしました。
もう一つは、理系的な「独創性」神話が挙げられます。実はロシアって歴史上、非常に理系的な貢献が大きい国でして、例えば現代幾何学の祖であるロバチェフスキーとか、周期律表のメンデレーエフとか、多段ロケット理論のツィオルコフスキーといった真に独創的な業績を上げた人々がいます。また、第二次大戦時のT-34戦車のような傑作兵器をいくつも世に出しています。現代でも、系統的理学研究の手法であるTRIZなんていう、知る人ぞ知る研究をものしています。
ですから、ロシア人としてはそうした精神性とイノベーション力についての強い自負があるために、安心して自国の消費財を罵倒できるということではないかと思います。

で、そうした文系的な帝王の右代表がエカチェリーナ、理系人間がピョートルと見なすことが可能ではないかと思います。

どこの博物館でもこの二人の業績が顕彰されているのを見ながら、漠然とそんなことを考えている。そんな旅でした。

第一次大戦というもの〜現代を見る目

歴史には時々、なぜ起こったのかわからない現象があります。

例えば、イスラームの興りなんて、宗教的熱情といえばそれまでですが、なぜあの時代、あの場所だったのか。
あるいは、日英同盟はなぜ消滅してしまったのか。あれって、太平洋戦争の遠因だと思うんですが、なぜ消滅したのかどうしてもわかりません。
また、現在の日本、あるいは先進国共通の少子化傾向についても、納得できる説明には出会っていません。

なぜこんなことを書き出したのかというと、ブダペストの歴史博物館で第一次大戦前後の展示を見ながら、なぜ第一次大戦は起こったのだろうかと考えていたからです。第二次大戦についていえば、はっきり言って、第一次大戦の結果としてのゆがみの是正と解釈するのが妥当と思います。ドイツの扱い一つとっても、あんな状態にされればルサンチマンが蓄積するのは当然と思われます。歴史家のジークムント・ノイマンに言わせれば、第二次大戦は第一次大戦からの連続であり、ただその間に休戦期があっただけだということになりますが、そこまででなくても、相当な因果関係はあると考えています。

しかし、第一次対戦についてはよくわからない。大体、どこの国の歴史展示でも、第一次大戦前はいわゆる「ベル・エポック」として、本当によき時代として描かれています。経済は発展し(それが植民地からの収奪の結果であったとしても)、文化も興隆する。ヨーロッパが一番輝いていた時代といえるでしょう。それが、特に第二次大戦でめちゃくちゃになってしまう。どうしてこんな自殺行為的なことになってしまったのか。

ただ、今回の旅で、たまたま「西洋美術館」で19世紀後半のフランス絵画展をやっていまして、あるヒントを得ました。ヨーロッパ絵画って、大体ルネサンスからバロック期にほとんど完成されているんですね。例えば、ラファエロとかレンブラントとかですね。その後の画家は、イタリアのマニエリスモのような試みはあるものの、手法としては古典派から逸脱することは基本的にありません。

ところが、印象派以降は、野獣派とかキュビスムとかダダイズムなどと、スタイルの革新の連続ですね。この辺は、ダニエル・ベルなんかが形式の革新の方に関心が移ってしまったことの一種の病理を分析していますが、それはさておき、どうしてこんな事態が来てしまったのか。

思えば、18世紀までの思想史は、人間の理性を完成させる歴史だったと思うんですね。一見革命思想に見える共産主義だって、実は究極の理性主義です。だから神を否定し、人間による人間社会の完全なマネジメントが可能であるとするわけですね。美術にしても、人間理性を表現することに奉仕していたように思えます。社会主義国の美術がリアリズムを嗜好するのも同じような文脈だと理解できます。

しかし、19世紀半ばからは明らかに傾向が変わってきます。古典的表現にあきたらないというか、古典的表現では表わせない社会になっていったということなんでしょう。ただ、それをフランス革命のような人々の覚醒に求めるのはちょっと違うように感じます。昔から宗教改革など大きな思想的革新と動乱はありましたが、美術の形式にはそれほどの影響はなかったですね。フランス革命以降にしても、ドラクロアに代表される劇的表現への傾向はありましたが形式上の変化はなかったように思います。

実は筆者が注目するのは、産業化の進展です。特に機械化ですね。筆者、製造業に奉職していますが、機械化され組織された工場が動くさまは、一種セクシーな感じがします。これってどういうことかと分析してみると、こうした近代産業のダイナミズムには人間の獣性というか原始的な衝動を刺激する部分があると思うんですよ。もちろん、製造現場だけでなく、交通にしても通信にしてもどんどん革新が進行する。こうしたダイナミズムを経験した後では、もう後もどりできないというか、古典的なものでは表現できない何かがあるように思えます。

実は第一次大戦の根本にはこのような人間衝動の解放(プラスの意味でもマイナスの意味でも)があるのではないかと思います。

ところで、美術は今から振り返ると以上のような先行指標として見なすことが可能だと思いますが、現代美術はどうでしょうか。ベル先生じゃないですが、形式の革新に疲れ、すっかり実社会への影響力を失っていると思えませんか。その代わりになるのが、インターネットに代表される広域コミュニケーションじゃないかとも思えますが、メールに始まり、メーリングリストSNS、はてはツィッターなど、次から次に繰り出される「形式」を見ているとすでにしてベル先生ご指摘の病理に陥っている可能性もあります。

筆者としては改めて足で稼ぐ方法を取りたいですが、どんなもんでしょうか。

ブダペストから(その2)

さて、2日目ですが、最初にその名もおぞましい「恐怖の館」に行きました。いや、別にお化け屋敷ではなく、第二次大戦前は極右政党「矢十字党」の本部、戦後は秘密警察の本部になった建物で、共産主義崩壊後にそれぞれの時代の所業を告発する形で公開されているんです。残念ながらハンガリー語主体で詳細は分かりませんでしたが、その雰囲気は伝わります。地上4階、地価1階なんですが、問題は地下で、牢獄や取調室や処刑場なんですね。小さなスペースですが、非常に陰惨なところで。ただ、この「博物館」も、旧共産党が政治復帰する中で、政争のテーマにもなっているとか。

そこから、市民公園まで徒歩。歩いたのは、アンドラーシ通りという、オーストリアハンガリー時代の初代首相の名を冠した広々とした道路なんですが、ガイドブックによると、名前が本当に何度も変わり、最初のシュガール通り(放射状という意味)→アンドラーシ通り(彼の死後すぐ)→スターリン通り(いつの時代かすぐ分かりますね)→ハンガリー青年通り(ハンガリー動乱当時の短期間)→人民共和国通り→アンドラーシ通り(1990年以降)と、まさに歴史を体現しています。この通り沿いには、各国の大使館の他、リストやコダーイなどの旧宅があり、それらをやり過ごしながら進みます。

市民公園は、東京の上野公園的な場所で、中には美術館2つ・博物館3つ、それに温泉とか動物園、はては国立サーカスまであるんです。今回は、西洋美術館でスペイン絵画の大コレクション(スペイン国外で最大規模なんだそうな)などを見ましたが、本当に収蔵されている画家のパターンって、どこの国でも似ていますね。昔の貴族のコレクションにはある基本があったんでしょう。中東欧ではクラナッハはまず絶対にありますし、イタリアルネサンスルーベンスなどのフランドル派も必須です。でも、きっと結構工房での大量生産の部分があるでしょうし、中には贋作も混じっているのではという気分にさせられます。

最後はシナゴーグユダヤ教の礼拝所)に。残念ながら閉まっていましたが、本当に巨大かつ豪華な建物でしたが、当然いろいろな歴史があったんでしょうね。

夜はオペラ感激としゃれ込んだんですが、ここのオペラハウスは多分戦災を受けていないらしく、華麗な内装がそのまま残っています。皇帝専用の階段室や貴賓席などもあり、これを見るだけでも来た甲斐がありました。もっとも、客種はいろいろな人が混じっており、一幕目が終わって退散する人もぼつぼつ見受けられました。やはり観光シーズンの、オペラに不慣れな人たちなんでしょう。

なお、今回、ハンガリーの料理も味わってみましたが、これがなかなかいける。特に二日目は、やや安っぽい感じの店でしたが、グヤーシュという、パプリカ主体の牛肉スープに、フォアグラのグリルを賞味しました。前者はボルシチのパプリカ版、後者はレバニラ炒めのレバーの代わりに生のフォアグラが使われたような料理でしたが、こんなに大量のフォアグラを食べたのは初めてでした。で、合計2000円もしないのでこたえられませんね。

しかし、店の人と話したりしていると、ハンガリーに本当に誇りを持っていることが分かります。そうした意識はいろいろな博物館や美術館でも感じられました。もちろん、民族というものはすべからく誇りを持っているものですが、周囲とは言語も違い(隣国は大体スラブ系)名前にしてもアジア人と同じく苗字・名前の順であるなど、独自性を意識せざるをえないことから、自然に民族感覚が醸成されるように思えます。中学高校では、ハンガリーはヨーロッパにおけるアジア系の「人種島」などと習いました。実際に来てみると、顔つきは他のヨーロッパ人とほとんど変わらず、金髪の人も多いんですが、意識としては「アジア人」あるいは「アジアから来た」という意識を濃厚に持っているように思います。

ところで最後に。1日目の最後にある広場を通りかかったところ、中高生くらいの若者が大勢集まって、枕から中身の鳥の羽を出しながらぶつけ合っている光景に出くわしました。非常に楽しそうで、かつ太鼓の音にあわせてやっているんですが、イースター恒例のイベントなんでしょうか。それにしてもお国さまざまです。