「乃木将軍」の持つ意味

畏友、風観羽さんから宿題をもらってから時間がたってしまいまして。
それにしても、実に正攻法の問いでしたね。

実はすぐに答えが出なくて、改めて乃木さんのことを調べてみたんです。すると、なかなか複雑な人のようですね。軍人としての経歴も維新の際の戦闘を含め、多岐にわたっていますし、若いときの遊びぶりも相当で、祝言の日もそれで遅れていったとか。一説には西南戦争で軍旗を奪われたことを苦にしての放蕩という話もありましたが、豪遊はそれ以前からのようです。もっとも、ドイツ留学から帰国後、生活態度が一変したとか。普通知られている質素な乃木さんというイメージはこれ以降のものというわけです。
また、旅順攻略戦自体も毀誉褒貶さまざまで、とてもにわかに判断が下せそうにありません。多分、実際に歩いてみないと分からないでしょうね。
脱線になりますが、実は、数ヶ月前にベルギーのブラッセルに出張したときに、近くのワーテルローを訪問したんですが、30万の兵士が集結した割には戦場が案外狭いのに驚きました。フランス軍が陣取っていたあたりに現在高さ40メートルの人工の丘が作られていて、その上から俯瞰的に見たせいもありますが、そもそもフランス軍とイギリス軍が最初ににらみあった距離は1.5キロ程度なんですね。接近して撃ち合うイメージの強い戦車の交戦距離は実は2〜3キロと言われていますから、当時の戦闘がいかに近接主体だったかがわかりますね。そういう視覚的なイメージを捉えて初めて分かることって多いわけで、逆に筆者が旅順戦を評価するためには現地現物での確認なしには難しいように思います。

それはともかく、そもそも、一人の人間の評価って、そんなに簡単なものじゃないですよ。

ということで、少し困っていたんですが、はたと気がついたのは、この「乃木将軍は名将か愚将か」という問い自体の持つ意味です。

乃木将軍の評価って、同時代でも大きく揺れ動いており、まずは旅順攻略に手間取って国民(というか新聞)から強烈な攻撃を受けます。攻略自体の巧拙というよりもとにかく手間取っていたことに非難が集中したようですね。旅順の陥落自体に国運がかかっていたわけで、この非難はある程度分かるような気がします。
ところが、息子が二人とも戦死すると急に同情が集まるようになり、旅順陥落後の水師営の会見などを経て、名将扱いをされるようになるんですが、相変わらず実際の戦闘の手腕と言うよりも、一種の人格と言うか「聖将」的な扱われ方のように思います。まあ、結果的に旅順が陥落した故の国民の余裕なのかも知れません。しかし、非常にエモーショナルなものを感じますね。

司馬氏はひょっとしたらこのような扱いの胡散臭さを感じていたのかもしれません。しかし、もしそうであればそうした扱いをする当時の空気なり風土なりを分析することが主であるべきですが、彼の体質として、つい人物評価に走ってしまうんですね。で、人物評価にどうしても難しい部分があるために小説家的に想像を膨らませることになるんでしょう。
近年、彼に対する批判の中心は、小説家としては史家を気取りすぎ、史家としては小説家として想像でものを書きすぎという点です。「竜馬がゆく」なんて、相当部分が創作のようで、坂本竜馬と言う人物を発掘したまでは良いものの、かえって別な虚像を作ってしまった嫌いがあります。

そして、何より問題なのは、こうした司馬作品をもって、「歴史を勉強した」気分になっている大多数の日本人の態度かもしれません。とすると、司馬遼太郎の本当の罪は、このような歴史学もどきを作ってしまったことにあるかと思います。