歴史に学ぶということ

筆者は一種の歴史マニアである。世に歴史好きは多いと思いますが、本当に歴史に学べていますか?

確かにビスマルクは、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言いましたよ。でも、ここで言う歴史って何でしょう?

例を項羽劉邦の抗争に取って見ましょう。普通の歴史好きは、やれ鴻門の会とか垓下の戦いとかにフォーカスするんでしょう。しかし、史記は現在のような歴史研究というよりも半ば講談的な要素が強いですね。私淑する宮崎市定先生の主張では、史記の鴻門の会の記述は、講談師が実際に演じてみせるような長さ・内容になっているとのこと。ま、考えてみれば、項羽と劉邦の対面のなまなましい場面が数十年後にそのまま記録されるとも思えません。ですから、これ自体、話半分の物語と読む方が妥当でしょう。

筆者が最も衝撃を受けたのは、宮崎先生が、戦国末から漢前半を秦・楚の抗争と捉えたことでした。屈原以来の秦による楚の圧倒に引き続き、項羽の台頭と秦の打倒をを楚の反撃と把握し、さらに劉邦の軌跡を秦人の反抗とする。その後の呉楚七国の乱が楚側の最後の反撃となるわけです。これには参りましたね。何しろ、知識として知っていた事実が、大きな流れになっていくわけですから。これを前提とすると、項羽とか劉邦とかがいわば奔流の中のいわば役者という位置づけになり、彼らの活躍を実現させた秦人・楚人のメンタリティを考えると感慨深いものがありますね。何しろ、項羽に生き埋めにされた秦人は話半分としても20万人なんですから。歴史物語の根底に流れる、それこそ歴史の流れとでもいうべき情念の奔流を把握することこそ「歴史に学ぶ」際に大切なことではないか。

ひところのプレジデント誌のような、歴史物語に淫している場合ではないですよ。