現実というものの凄さ

筆者の好きな言葉に、「現地現物」というものがあります。まあ、「百聞は一見に如かず」と意味的には一緒ですが、これが良いのはフットワークがビルトインされていることですね。つまり、実際に体を動かせと言っている。

ただ、現地現物も簡単なようで難しいものです。

難しさの一つは、対象の単純化への誘惑です。
昔、学生時代に東京の名所めぐりをやってみたことがあります。やってみたというより、相当なエネルギーをつぎ込みましたよ。何しろ、山と渓谷社のガイドブックに載っていた名所約300箇所を回りましたので。
何でそんな馬鹿なことを始めたのかというと、高校生の頃、自分が浅草にも泉岳寺にも行ったことがないことに気がつきましてね。まあ、東京に住んでいるとかえってそういう場所には行かないものではありますが、これではいけないと思って、大学に入って早速名所めぐりに取り組んだ次第です。
で、回り始めて思ったには、東京という街の巨大さと言うか多様性というか、とにかく、とりあえず皆が「東京」と呼んでいるものが、はたして一つの存在なんだろうかという疑問ですね。筆者は東京西部の出身なので、東部のいわゆる下町はあまりくわしくなかったのですが、例えば門前仲町と浅草は全然違いますし、葛飾や足立の埼玉県境なんか、完全に田舎でしたね。今はどうかわかりませんが。
ですから、東京という町ひとつとっても、その全体を把握するのは容易ではありません。

それなのに、人間は自分が見聞きしたことで、あたかも全体を知っているかのように振舞いがちですね。昔、アメリカに駐在していたときに、アメリカ人の人種構成について話したことがありますが、ロスアンゼルスに住んでいる知り合いは人口の半分くらいはヒスパニックではないかと言い、アメリカが初めてでしかもデトロイト市内を通ってきた人は8割が黒人に違いないと言い張るんですね。でも、正解は黒人12%、ヒスパニック13%程度です

もう一つは、時間経過を無視しがちということです。土地もそうですが、人物についてもありがちですね。いわゆるレッテル張りというやつです。本当は男子三日会わざればすなわち刮目すべしなんですが。そもそも一人の人間を知ること自体可能かどうか。自分でも自分のことってよくわからないですからね。

でも、人間、単純化しながらでないと生きていけない動物なんでしょう。何しろ、人間の近く能力は2万ビットもあるのに処理能力は100ビットくらいしか無いとか。ですから、いちいちの現実に付き合っていられないので、どんどん単純化しながら現象を右から左に処理してるんですね。

そういうわけで、先ほどの時間経過についても、対象が本当に変わっている場合もあれば、単に知覚している部分が違う場合もありますね。

本当に現実を知るということは難しいですよ。いつか、有名なゲーム製作者が、「現実に近づけようとすればするほど、現実と言うものの凄さを感じる」と述べていましたが実際そうなんでしょう。

それだけに、筆者は「断定」することに非常に恐れを感じます。それにつけても、世の「コメンテーター」なる人々、本当に勇気がありますね。