風観羽さん江

風観羽さんは筆者の尊敬する方の一人である。彼の、7月20日の記事については感じるところが多々ありました。

まず、灰色の男たちについて。筆者にとっては、「疎外」という言葉が浮かびますね。学生時代の社会思想史の講義のキーワードが疎外でした(ちなみに、大学に入って一番衝撃的だったのは、講義のタイトルと中身の乖離でしたね。社会思想史も概説的ではなかったですが、西洋史なんかフランス2月革命だけで半年が終わってしまいました)。でも、筆者の言葉で言うと、「人間が自分の作ったものの奴隷になる」状態ではないかと思うんです。例えば、1930年代のドイツはより良い生活を求めてヒトラーに投票し、結局国が破綻した。これなんかは明らかな失敗であり、皆がいやいや従ったとしても、精神的な奴隷とは言いがたいですね。しかし、もっと恐ろしいのは、自分がそうした奴隷状態にあることに無自覚である場合でしょう。昭和がそうした面を持つことは確かであると思います。

とはいえ、筆者、疎外無き世の中というのもありえないとも感じています。原始的なムラならいざ知らず、私たちはすでにさまざまなイメージに取り囲まれて生活しています。多分、そのほとんどが疎外をもたらすものでしょう。そもそも、今の我々が享受している生活形態事態が過去の人々の、疎外的な活動の結果と言えると思います。
とすると、確かに個人の「幸せ」と疎外とは相容れないものではあるものの、種としてのヒトにとって、必ずしも災いをもたらすとは限りませんね。とすると、灰色の男たちはヒトの集団的無意識の象徴なんでしょうか。
しかし、人類の発展(この言い方自体にも問題があるのは自覚しています)の歴史は、やはり個人の幸福の追求にあるわけで、問題は個々人の価値観と集団としての利益のバランス、またあらゆることに対する懐疑的な姿勢ではないかと思います。その上で、個人としてはある程度の疎外(ま、自覚すれば疎外では無くなるとも言えますが)を楽しむ余裕を持ちたいものです。

もう一つ感じたことは、「愛に理屈を持ち込むな」ということです。学歴社会に関して述べておられますが、それに関連した筆者の危惧は、「子供を愛している→学歴社会での成功を期待する」が「学歴社会で成功→だから子供を愛する」に転化する危険をはらんでいるということです。上野千鶴子氏の名著「近代家族の成立と終焉」にあるように、日本の家族はその中に人工的な部分があります。もともと、江戸時代までは大半の日本人には「家の伝統」などなく、家系図もないはずです。何しろ苗字が無いんですから。ところが、明治に入って、国の政策として「家」を基礎とした近代家族が形成された。で、家長が家を、あたかも公的権力の末端組織のように管理していた・・・というのが戦後の近代家族観のようですね。もっとも、国民のほうも憧れの武士的な制度を使えるっていうんで、嬉々として従ったとは思いますね。多分、モデルロールもお侍さんだったはずです(これについては別途書きたいと思います)。
しかし、この近代家族、家庭に「論理」を持ち込んでしまったように思うんですね。昔なら滅私奉公とかお国のため。あるいは立身出世イデオロギーとか。これが戦後は家族愛になるんですが、どうもこの家族愛自体に外からの論理の名残を感じてしまうんです。

実は、筆者、子供が幼稚園のころ死にかけまして。それまでは、多分、「愛さなければならないから愛する」という父親でしたが、この経験を通じて、子供をその存在自体として愛する、というより大事に思えるようになりました(愛という言葉自体、人工的ですね。今の筆者の気持ちは、むしろいなくなったら嫌だというようなものでしょうか)。その結果、家人からは甘いと批判されますが。もちろん、例えば学歴イデオロギーから全く自由なわけではありませんが、少なくともそれが子供とのチャネルではなくなったとは言えると思っています。

今日はえらく長くなってしまいましたが、風観羽さんのテンションに影響されまして。それにしても、出力調整しながら進みましょう。