再び現実を知るということ

前に現地現物について書きましたが、続きをもう少し。

現地現物がなぜ口酸っぱく言われるかというと、どうしてもデータに頼ってしまう傾向が人間にはあるからです。というより、データでわかったつもりになってしまう。

問題の一つは、データ採集がどのように行われているかです。実は客観的なデータを取るのは案外難しい、というよりも最初からある仮説あるいは目的をもって採集するというのが実態でしょう。例えば財布の中身だって、キャッシュが無くなると困るからチェックするわけですが、その場合万円札は意識しても一円玉の数までは意識しないでしょうね。ですから、データはあくまでも現実の一部分得を切り取っているに過ぎません。
また、特にアンケートですと、その場の雰囲気や集団の文化なんかが相当影響するでしょうね。ですから、同一集団の時間的経過を見るのは相当有効ですが、絶対値としてどこまで判断できるかは疑問ですね。旧社会主義国の投票みたいなものです。また、統計は結構集計ミスなんかもありますしね。
ですから、データの有用性と限界を常に意識し、おかしいと思ったら見に行く、同時におかしさへの感性を磨くために常に現場観察をするというのが正しい態度でしょうね。

もっとも、地位が上になると、自ら現地現物というわけにはいかなくなります。これについて、湾岸戦争の米軍兵站の総責任者だった、ガス・パゴニスがその回顧録の「山動く」で、「自分が行けなければ、実際に行って見てきた者の話をじかに聞く」と述べています。そうなんでしょうね。とりわけ、自分の分身と言うか、こいつの観察は信用できるという人間を日頃から特定しておくことが必要でしょう。でも、そのためには、あらかじめ本人ができるだけ現場を見ておき、その上で現在の状況を聞くのが最上と言えそうです。

どうも、こういう話をしていると、旧日本軍の失敗の話をしたくなってしまいます。例えばガダルカナルにしてもインパールにしてもレイテにしても、中央あるいは現地総司令部が現地の事情をどのくらい把握していたのか。インパールで険しい山道を家畜を連れて行軍させたり、レイテ決戦と言う言葉に酔って制空・制海権が無い中多くの犠牲を出したり。
とても、現地状況の把握をトップがしていたとは、いやしていたんでしょうが少なくとも重視していたとは思えません。

そのために、ドイツ参謀本部では、平時の参謀の旅行を奨励していたとか。

しかし、一方で、単なる現地現物も考えもので。つまり、印象論になってしまう嫌いがある。人間、見たものはすべて判ったと思いがちですね。この話は以前にも書きましたが、最近もある非常に上位の官僚OBが最近の事件について憂慮し、戦後教育の問題だと断じていました。ちょっと淋しい思いがしました。現実感も新たな発見もなかったからです。
ところで、パオロ・マッツァリーノ氏の「反社会学講座」によれば、殺人の件数はここ20年くらいどんどん下がっているとのこと。他でも同じような統計を見たことがあるので本当なんでしょう。マスコミ報道だけを見ていると、非常に増加している印象を持ちがちで、このOBさんもそれを前提にしていたようですが。ですから、自分の問題意識をデータで検証することはとても大切ですね。

ま、マスコミ報道については、データの方が現地現物という見方もありますがね。最近の若年層は新聞を読まなくなっているそうですが、こういう浅さが見透かされている部分も無きにしも非ずという気もします。