存在することへの違和感

どうも、我ながら変なタイトルですが。

ヨーロッパに住んでいて、いろいろな町を訪れると、ある意味、そのワンパターンに驚くことがあります。要するに、旧市街の広場と市庁舎と教会ですね。広場も、古くかつ大きな町になると二つありましてね。大きくて市庁舎がある方が新しい広場で、大抵その隣に「塩の広場」とかいって少し小さめのものがあります。実はこちらの方が古く、中世の市の跡とか。
で、ハイライトが教会になるんですが、これがねえ。筆者が住んでいるのはカトリック圏なんですが、とにかく教会は豪華絢爛そのものですよ。でも、必ずキリストの苦悶の像はもとより、各種の殉教の図とか、聖遺物(要するに死体の一部)なんかがいっぱい飾ってあります。王族とか貴族の棺なんかも定番ですね。
いったい、これって何なんでしょうか。日本の宗教、特に神道なんかが非常に自然に親和的(というより自然崇拝そのものと筆者は思っていますが)なのに比べ、人工というか人間の意志を感じます。でも、それは一方で大変反自然ということでもありますね。大体、ヨーロッパの自然は完全に人の手で管理されていまして、一見自然林に見えても、必ず人工性が透けてきます。これはこれで一つの行き方とは思いますが、一方で、自分の存在に対する違和感への入り口が口を開けているようにも感じます。
ハイデガーに代表されるように、ヨーロッパ人は「存在」というものを問題とするのが好きですが、それは自分と言うものに対する違和感から発しているのだと、こちらに来て実感しています。

もっとも、最近の日本、どんどん自然性から遠ざかっており、これは自我の発達でもあるのですが、同時にアイデンティティの喪失(いや、本当は元から無かったのに、必要になってその欠如に気がついたのかも)につながっているように感じます。うつの急増なんかも、あるいはこのような面もあるのかも。せめて、自分の内なる自然、というより、自分が動物、生物である実感を持つ瞬間をできるだけ持つようにしたいものです。

というわけで、明日はうまいものでも食いますか!