誤読・誤解≒インスピレーション

しばしば誤読の例を見かけます。

一番単純なのは、単に論旨を正しくつかんでいないというもので、これは要するに国語力の問題ですね。

次にあるのが、その背景にあるものを理解していないとうもの。あるいは、勝手に解釈するというものがあります。いつだったか、ある高名なアメリカ人ジャーナリストが、東京で日本人にインタビューをしていた際、軽い地震があったそうですが、相手が平然としていたのを見て、「ここにサムライがいる!」と感嘆したそうな。まあ、本人はパニックになったようで、お気の毒としか言いようがないですが、日本人からすると一種の漫画ですね。
ただ、本当に「論旨をつかむ」ということはどこまでできるんでしょうか?コミュニケーションの難しさ、つまり、相手に自分の言いたいことを伝えることの大変さはしばしば感じるところです。また、筆者のように海外にいると、異なった言語間でも、完全なコミュニケーションは成立しないんじゃないかと思うときもあります。

特に、宗教・哲学関係なんか、実は誤読の連鎖じゃないのか、とも考えてしまいます。本人の言ったこと、書いたことの難解さはもとより、結構編集もされていますよね。マルクスの著書に、エンゲルスの解釈がどのくらい含まれているか。また、仏教では何回も「結集」を行って釈迦の語録を残そうとしていますが、相当部分は勝手な解釈や後からの追加らしいですしね。聖書でも、福音書ごとに言っていることが微妙に違います。
これに加えて、翻訳の問題もあります。ロープシンの小説に「青ざめた馬」というのがあり、これにインスピレーションを得て、五木寛之氏の「青ざめた馬を見よ」になるわけですが、この青ざめた馬、ヨハネの黙示録から取られています。手元にある新共同訳では青白い馬となっていますが、イザヤ・ベンダサンによれば、原典ではくすんだ緑色(遠藤周作氏的には緑便色などと言っていました)とのこと。これが本当とすると、緑便色の馬を見よになるわけですか・・・

それはともかく、宗教というもの、ある意味誤読の連鎖とも言えます。いや、インスピレーションって、結局こういうものではと感じてしまいます。言い換えれば、個人個人のインスピレーションを惹起することこそが宗教の実用性などではないかと思うんですね。

それにしても、釈迦やキリストがならの大仏やサン・ピエトロ寺院をみたらぶっ飛ぶでしょうね。