強制収容所というもの(その2)

収容所には、ロマ人とか犯罪者とか同性愛者などがいろいろな人たちが収容されましたが、やはり右代表はユダヤ人でしょう。しかし、ユダヤ人といっても、同一じゃない。まず、ユダヤ人の中でも意識したユダヤ人、つまりユダヤ教徒として過ごしてきた人もいれば、ユダヤ系というだけの人もいたはずです。何しろ、祖父母に中にユダヤ人がいるだけでユダヤ人とされたわけで、キリスト教徒も多かった。それだけでなく、ユダヤ人相互は言葉が通じなかったということ。ユダヤ人というのは、ナチスからのレッテルであって、彼らのアイデンティティではなかった。言い換えれば、大多数のユダヤ人は、ユダヤ人であるとともに各国国民だったんですね。
ですから、ガス室に誘導されるとき、彼らは、言葉のわかる同国人に導かれたんですね。それが、十把ひとからげのように殺される。
悲惨なのは、彼ら、特にドイツ出身者は、自分の祖国から裏切られていることです。ナチスは、彼らの愛国心を疑い、第一次大戦の戦績を調べたところ、ユダヤ人は他のドイツ人を上回る活躍、戦死、戦傷であったそうな。そうした、自分の命を賭した祖国から裏切られている。丁度、親から虐待を受けているような子供のようなものでしょうか。
それでは、強制収容所に収容されたことで、彼らの祖国への信頼は無くなったのでしょうか?そうともいえないのではと思います。と言うのは、大戦末期にドイツはポーランド国内にあった強制収容所の囚人に対し、ドイツ国内への移動を命令するんですね。その過程で多くの人が命を落とす。やせ細った囚人のフィルムがよく放映されますが、この結果の場合が結構多い。でも、これって多分ソ連への恐怖でしょうね。そこには、比較の問題かもしれませんが、まだ祖国への信頼が残っているのではと感じられます。
この信頼と言うやつ、人間の最後の希望なのかもしれません。アウシュビッツでは、到着した囚人が持参したかばんに名前を書かせる。出所する際に間違えないようにと言うわけですね。これを心理操作と言うのはたやすい。でも、囚人の側も、うそ臭さを感じつつ、そこに一縷の望みをつないだのではないか。

考えれば考えるほど、その悲惨さがいやましになります。