宗教というものを実際に見ると

ヨーロッパにいると、観光の目玉いまず教会が入ってきます。実際、ヨーロッパって、それほど風光明媚ではないので、つい建物中心の観光になり、そうすると教会ははずせない、ということになりますね。

まあ、いわゆる観光地でなくても、ヨーロッパって教会に満ち溢れています。大きな町はともかく、東欧の、あまり豊かそうでない小さな集落で教会だけひどく立派、という光景は何度も目にしました。
考えてみれば、日本でも山あいの村に、不釣合いなお寺、というパターンもありますね。

それにしても思ってしまいます。ここまで教会に入れ込まなかったら、生活がもっと豊かではなかったかと。でも違うんでしょうね。要するに、宗教施設って、人間が非日常を体験できる装置なんですね。
だって、単調な田舎生活の中で、教会だけが荘厳に満ち溢れている。また、キリストの受難像で攻撃衝動が満たされる(本当に残酷なんですから!)。また、先祖の墓に詣でて、死を思う。これとてある種の非日常でしょう。

同時に、教会はコミュニティのメディアでもある。集会所であるし、司祭はカウンセラーでもある。

何となく思うんですが、人間の集団が自然に維持できる規模って案外小さいのではないか。逆に言うと、都会生活の不自然さを感じざるを得ません。まあ、今のようなネットの時代は、ある意味すべての人が都会人ですので、ますます「自然集団」から遠ざかっているんでしょうね。とはいえ、だからこそ、都会は面白い。というか、都会に住むには、ある種の「スキル」が必要なのではないかとも感じます。具体的には?いや、それは実は限りなく身体的なものでは、とおぼろげに考えています。これはまた、稿を改めて。