続々:政治家の発言に思う〜「昭和」の限界

このテーマ、前から書くつもりだったんですが、いい機会なので取り上げてみます。

例の政治家に限らず、「昭和の限界」というものがあるのではないかと思っています。「昭和の限界」とは何か。

筆者の感じでは、明治の指導者のバックボーンは、漢学だと思います。もちろん、指導層は必死になって西洋の文物を取り入れましたよ。でも、依然、彼らの基礎的教養は漢学だったはすです。日露戦争は、漢学のバックボーンと洋学の知識で戦ったといえるでしょう。

で、大正になって、初めて西洋の哲学が指導層の哲学になりかけた。この時期の蓄積がその後の昭和につながるのではと思います。
昭和前期、つまり、戦前は大正文化の青年層への普及期と捉えたい。この時期の旧制高校・大学は確かに知的蓄積のインフラであったと思いますよ。でも、この時期は、同時に国粋主義の影響もあったし、何より外部との接触が少なくなった時期でもありますね。
とはいえ、この時期の教養のレベルというのは大したものであったと思います。

問題は、大正昭和の教養というものがどこまで本物だったかということです。本人たちの意識はともかく、少なくとも、国民的な基盤を持っていたとは言いがたいでしょうね。特に、軍部の違和感というか憎しみは相当なものだったようです。旧制高校生が衆愚を笑い高踏的な議論に耽っている一方、軍隊は徹底的に横文字嫌いで通していました。東京裁判で死刑になった武藤章が、軍隊内で哲学をやるものがいないので独学したそうですが、それだけに軍隊の、「教養」に対する拒否感はそのようなものだったんですね。
しかし、同時に、教養というものの底の浅さもあったんでしょうね。雪斎さんが書いていますが、戦後、吉田茂が人材を官界からリクルートしたのは、政党政治家がいかにも信用が置けなかったからだとか。もちろん、政党政治家と教養との関係が一対一ではないでしょう。しかし、当時の文官のバックグラウンドの弱さは、確たる信念の弱さからくるのではないか。もちろん、神無き国で、キリスト教を背景とした文化から新年を形成することの難しさはあったでしょう。とはいえ、それはとりもなおさず、当時の教養がいわば付け焼刃であったということでもあります。戦中の横文字忌避は、結果としての教養の敗北ということなのだと思います。

とはいえ、戦前の西洋文化の受容度は、当時の物理的な制約を考えると大したものでしょうね、世界的に見ても。そのレベルが、戦後の急速な復興を可能にしたのは紛れも無い事実と思います。哲学的なものもそうですが、絵画や音楽などの受容も相当な水準であったようですね。
しかし、自信を回復するとともにまたぞろ、底の浅さが現れてきます。前にも書いた、狩猟民族と農耕民族論なんかがその典型でしょうね。まあ、教養の底の浅さとともに、戦中の皇国教育、そして、海外から遮断されていたことが決定的な弱点だったように考えています。とにかく、物事を非常に単純に考える癖がこの戦中派世代にあるようです。

筆者には、バブルは、この昭和的なものの最後の徒花だったように感じられます。ことに外国崇拝とナショナリズムの奇妙な同居は、この国の精神的な履歴を物語っていますね。

バブル崩壊で、昭和的なものは基本的に払拭されたのではと思います。希望的かも知れませんが、海外を生で知った層の増大が日本社会の底流を変えていくのではと考えています。

それにしてもこの間の政治家、まさに昭和の亡霊という感じでしたね・・・