文明の退化?〜壮年期

風観羽さんによると、文明は退化しているそうな。いや、別に揶揄しているのではありません。氏の人となりを知っている者として、氏の危機感は痛いほど伝わってきます。

しかし。

「退化」という言葉の中に、どこか単一のものさしが感じられますな。

このようなイッシューで、筆者が最も衝撃を受けたのは、故網野善彦先生の「人類は壮年期に入った」という言葉です。
(因みに、筆者は網野先生の弟子でも教え子でもありませんが、昔からの読者で、かつアメリカに居た時に丸1時間、先生を独占してしゃべっていたことがあります。筆者が住んでいた町にある大学に招かれて講義を行ったんですが、その前夜祭的に簡単な立食パーティーがあったんですね。で、筆者も偶然出席したんですが、周りのメンバーは彼ら同士の社交に忙しく、先生は放っておかれていたんですよ。で、首尾よく筆者は先生を独占していたわけですが、専門学徒でない悲しさ、まず口から出たのはある本のあとがきにあった、名古屋時代に上半身裸で原稿を書いていたことだったんですが、ただのサラリーマンがそこまで読み込んでいたことを本当に喜んでくれましたね。もちろん、その後は先生の最新成果をひたすら拝聴していたんですが、素人に対し本当に真摯に教えてくれました。実に目が澄んでいた印象のみです)

さて、元に戻りますと、「壮年期」という言葉には複線的なレールが前提となっていますね。つまり、体力的には現在はともかく、先々には限界があることをを感じている。しかし、精神的にはそのようね限界感もあいまって、ますます高みに昇っていく可能性を秘めている。いわば、「男/女盛り、分別盛り」というところでしょうか。

現在の環境問題、ざっくばらんに言えば、今日明日我々の生活が破滅するほどではないでしょう。しかし、確かに今までの成長が続けられないことも把握しているは確かです。人類として、十分活力はある。しかし、物的な限界が存在していることも実感している。とすれば、必ずしも物質的でない方向に進化の方向が向けられるのが必然でしょう。この、「必ずしも物質的でない」とは、精神的なものを指すわけではありません。精神的なものは、すでに宗教とか哲学といった形で相当な高みに達しています。中世ヨーロッパのキリスト教関係の思想・哲学なんかははっきり言って、貧者の哲学めいた部分が多いと思いますがそ、れが近代を用意したわけですね。
筆者が言いたいのは、これだけ科学技術が発達したんだから、それを使わない手は無いだろうということ。ですから、一人ひとりが日々の生活をほんのわずか切り詰めて、アポロ計画とかハッブル宇宙望遠鏡とかに資源を集中する。そしてそれによる発見が我々の生活をどのくらい豊かにしてくれるものか。
ここには、ただの蓄財ではなく、使い上手の思想が隠れています。今後、我々がめざすのはこのような方向ではないか。それこそ、人類の壮年期に立ち会った我々の幸せのように感じるんですがね。