人間を取り巻く「確からしさ」というもの

佐野眞一氏の「甘粕正彦 乱心の曠野」を読了しました。係累に旧満州出身の者がいる身として、他人事と思えない部分がありましたね。
しかし、ある書評にあったように、60年以上も前に亡くなった人物の事跡を追うという作業、実に労力がかかるものであるし、その結果はどこかもどかしさを感じさせるものがあったのは事実です。

以下突飛な話ですが。

一体、タイムマシンというものは可能であるのか。筆者の感覚では、もしも可能であるにせよ、過去を変えることとと未来を完全な形で覗くのは不可能であるのではと考えています。逆に、過去を覗くことと未来に影響を及ぼすことは程度問題ですが可能性はあるのではと感じています。
実は、これって人間の営みそのものですね。過去にさかのぼってデータを拾うことはある程度可能です。昨日の夕食の中身など、記憶だけでなく、やろうと思えばカロリー計算も簡単にできるでしょう。しかし、1年前だったらどうでしょうか。何かの記念日ならともかく、普通は相当きびしいでしょうね。ただ、労力をかければ何とかなるかも知れません。では10年前なら?
非常に雑駁に言えば、過去のデータの確からしさは、遡る時間の長さと調査にかけるコストの積になるはずです。かつ、求めるデータおのおのに、確からしさの限界が存在する、そんなことを空想します。
ですから、歴史学について言うと、近過去と遠過去では様相が全然違いますね。歴史学には、個々の現象を追う部分と時代全体の流れを追う部分の働きがあるというのが筆者の勝手なイメージですが、近過去であればあるほど個々の現象の追及が可能で、遠未来であればあるほど、時代全体を追う部分が大きくなる。というか、個々の現象の追求はどんどん困難になる。
昔、中学校では仏教の伝来は552年と習いましたが、大学受験では538年となっていました。どうも、日本書紀では552年となっていたのが、元興寺縁起と上宮聖徳法王帝説という2つの文献では538年となっており、2対1で538年になったのだとか。結局、確率の問題ということですか。
ですので、遠未来になればなるほど、歴史学と考古学の境界はあいまいになってきますね。
逆に、未来については結局、何も分からないと考えています。もちろん、確率的に言えば、近未来であるほど確実です。ですから、明日も今日と同じような世界が続く、つまり大地震が起こる確率はほとんどゼロと思って目覚ましをかけるわけですし、実際そうでしょう。しかし、長期的には一種の大数の法則が働いて、地震の確率が高まる。あるいは、状況はどんどん動くので、遠未来ほど予測は当たらなくなります。しかし、こうした予測も所詮確率論でしてね。明日のことは完全にはわからない。
しかし、未来への影響ということでは、これは完全に可能です。というより、現在は過去の行動の集積の結果であり、それなしにはいかなる現在もありえません。問題は、その影響の結果がわからないということにあります。

こういう時間論のようなものを考えると、物理的なサイズとの類似を感じますね。量子力学のような極微の世界も天文学のような極大の世界も、突き詰めれば突き詰めるほど確率的な世界に入ってくるように思いますし、それらを探求するコストも、例えば粒子加速器とか宇宙望遠鏡のようにどんどん大きくなってきます。

結局、我々は空間的にも時間的にもうっすらとした霧の中に住んでいるということでしょう。つまり、身の回りはとりあえずくっきりと見えるが、近くの電信柱はちょっとぼやけ、遠くの山はほんのうっすらとしか見えない。で、時間と金、つまり資源を割いて、遠くの山の様子を見に行く。これこそが知的活動であり、そのエンジンは好奇心、探究心という人間の根本の動機にあるということが言えるかと思います。
ただ、そうした不確かさに対する不安が宗教を生み出したとも言えますが。