「私」の正体

今週、当地のテレビの日本チャンネルで放送されていた、NHKの番組である爆笑問題の「“あ〜、疲れた”の正体」は衝撃的でした。残念ながら途中からしか見ていませんでしたので、すべてを把握しているわけではないんですが、最初は、疲れの分析から始まりました。そのうち、脳内にウイルスが存在していてそれがいろいろなたんぱく質を作り、疲れやさまざまな心の病気の原因につながるとのことでした。そして、最もインパクトがあったのは、その研究者が、仮説として、そのウイルスが「ひらめき」の触媒になっているんではないかとの意見を開陳していたことです。
最近読んだ茂木健一郎氏の本で、心の反応はニューロンの発火の反映であり、しかもそれ以外にはない。また、心の現象はニューロンの発火の従属現象であって、その逆ではないともありました。確かに、脳内の物理的反応がニューロン発火のみであれば、そう解釈せざるをえないでしょう。問題は、心の働きがニューロン発火をコントロールしていないのであれば、我々の心というか自我の独立性って何なんだろうかということです。
もっとも、ニューロン発火という一次現象の上に、何らかの構造(あるいはベイトソン的にいえばパターン)の存在を仮構することは可能かもしれません。ただ、その場合でも、パターンがパターンをコントロールするというようなさらに高次のしくみを考えていく必要はあります。問題は、一次現象をコントロールするような「構造」というものの存在可能性ですが・・・
ただ、ここにウイルスのような別の存在を考えたときには、違ったアプローチが可能になりえますね。つまり、生命誕生におけるコアセルベート形成のための雷鳴のようなものです。そうした可能性を件の研究者は「ひらめき」と呼んだのかもしれません。
まあ、人間って、実はいろいろな他者を包蔵しているのは確かです。例えば、腸内細菌無しでは生きられないわけです。もっとも、医学的には腸壁は内部ではなく外部であるとも聞きました、つまり、バウムクーヘンの内径壁は外形壁と同じように外部に接しており、口内壁や腸壁はバウムクーヘンの内径壁と同じということらしいです。でも、トポロジー的にはそうかもしれませんが、少なくとも腸内細菌を携行し、共存しているのは事実ではありますね。しかも、腸自体が情報処理をしているとも看做せるそうですので、そうした腸内環境が間接的に我々の心理状態に影響を及ぼしている可能性はあるでしょう。
しかし、脳内となると話は別です。しかも、ニューロンの働きに何らかの直接的な影響を与えているとすると、これは我々の意識の一部ともなってきます。再び、自我の同一性というものとは何かが問われることになってきますね。

それにしても、茂木氏の本にもありましたが、脳研究、特に脳と心の関係を研究しようとしたときの一番の問題は、意識というものが最終的には極めて私的なものであり、客観的な観察はできないのではないかという点です。つまり、心の状態は本人しかわからず、これを例えば共通のツールである言葉で表わしたとしても、本人の解釈(イメージの言語化)と受け手の再解釈(言語のイメージ化)のプロセスがあり、しかも、言語そのものに対する解釈が完全に共通であることはありえない、また、イメージの言語化にも限界があるなどの問題ですね。
考えてみると、そもそも、我々の社会はお互いの意識というものが同じような構造をもっているという前提で作られていますが、これって実は仮説以外の何者でもありません。完全な一致はありえないでしょうし、意識自体を図るツールも無い。逆に、人によっては、心理構造が普通でない場合も多々あります。いわゆる異常人格も、本人にしたらこれが普通ということですし。

結局、我々にできることはそのような不完全性を直視し、それを前提に行動することしかないのだと改めて感じます。