リスクをとるということ

我ながら、世の中ひっくり返っているなかで極楽とんぼしていると思いますが、何しろ日常に変化が無いもので。

さて、ヨーロッパにおりますと、時々カジノに行く機会があります。日本人ですと、マージャンとかパチンコとか、多少とも腕を試されるものを好むような印象がありますが、欧米のカジノは純粋な確率との戯れを楽しむ傾向が強いようです。例えばルーレットしかり、ブラックジャックしかり、スロットマシンしかりです。実は、ルーレットでは賭けの状況から、店の上がりが一番多い数を出す芸をディーラーが持っているとも聞きますが、慣れている人は、玉を振ってから賭けてそのような作為を排除していますね。また、いろいろな賭け方のルールは、多少は胴元に有利にできているようにも感じますが、あくまで確率的、相対的なことのように感じます。
ところで、ばくちでは良く、「流れ」ということを言いますね。つまり、つきが来る時期がある、という意味です。
あれって、気のせいかと思っていましたが、考えれば必然かもしれない。というのは、確率は個々の現象の確からしさとともに、多数の現象での実現数の収斂、つまり大数の法則という面もあるからです。
確率論の教えるところでは、ルーレットでいかに沢山の赤が出た後でも、次に赤が出る確率はやはり2分の1です。しかし、大数の法則が成り立つとすれば、どこかで黒が多く出なければならないはずですね。この、個々の確率に対して大数の法則がキャッチアップする過程を「流れ」というのではないかと思いますね。
問題は、大数の法則はまさに大数であり、その日に必ずしも勝ちが来るわけではない、むしろ期待値からすると銭失いになるわけですが、それでもギャンブラーは流れがくることを期待し、その期待に基づいて賭け金を増減し、それが当たったときに喜びを感ずる人種なんでしょうね。運命との戯れというところでしょうか。

ところで、結婚はしばしば人生の最大の博打などと言われますが、こればかりは大数の法則は利かせようがないですね。いくら、他人の過去の例を千例集めても、結婚は非常に私的なものですからやってみないとわからない。最近の少子化というか、非婚化には、今の生活を壊したくない、リスクを冒したくないという気持ちも相当影響しているように感じます。そしてその根底として、自分がもしかしたら死なないのではないか、という意識もあるのではないか?何しろ、死がこれだけ日常から隠蔽されている中、生物としての自分の滅び、子孫を残したいという欲求がどこか希薄になっているように感じます。誰かが書いていましたが、精子の濃度が前の大戦中、最も濃くなったとか。そんなこと調べている暇があったのかとちょっと眉唾かもしれませんが、戦後のベビーブームなんかは、強く死を意識した人々の子孫を残したいという本能の現われと考えられるでしょう。

どうあがいても人生は有限なんでね。多少のリスク無しに、世界は広がらない、というかこの世を楽しむことはかなわないように感じますね。