「アメリカ」に代わるものがあるか

お久しぶりです。どうも出張やら旅行やらですっかりさぼってしまいました。

しかし、本当のインターバルの原因は、ちょっと疲れたというか書くことに食指が動かなかったというのが本当かもしれません。なにしろ毎日いろいろおこるので、これをフォローすることに夢中で何だかブログに向かいませんでしたな。

もう一つ、こうした状況の中で、自分の像がいまひとつ結ばなかったということもあります。この事態の本質は何なのか、実はよく分かりません。

一つには、自由放任主義の終焉という見方です。サルコジのスタンドプレーにはヨーロッパの官僚独特のいやらしさ、エリートによる指導みたいなにおいがあります。しかし、物事を「コントロール」するだけの知力は所詮人間にはない。これは旧社会主義の失敗ですでに明らかです。面白いのは、いわゆるトヨタ生産方式の一つの本質は、コントロールを放棄しているところにあるんですね。つまり、刻々変わる現実にいかに対応するか、そういう対応をビルトインしているところにこの方式の凄さがあるように思います。

それはともかく。

もう一つの見方は、アメリカの覇権というかドルの覇権の終焉という見方です。これは本当は信じたくない。もしもそうだとすると、日本、あるいは中国もそれの道連れですね。ドルの暴落は両国にとっての悪夢でしょう。

しかし、ドルの価値とは別に、アメリカ的な行き方に代わる行動様式を我々は持ち合わせていないのも事実でしょう。ヨーロッパにいても、異文化のコミュニケーションは知らず知らずのうちにアメリカ的なビジネスの作法で行わざるを得なくなっています。

そういう意味では、こういう非常事態の中で、「アメリカ」の価値はいや増しになっているようにも感じます。

しっかりと根本のところを保持して対処したいものです。