勇気は精神上の自己保存

クラウゼヴィッツの「戦争論」を再読していたら、こんなくだりが。

「危険は、直接に、すなわち本能的に、もしくは知力を通じて、感情に働きを及ぼす。その結果生ずるものは、危険から逃れようとする努力であろう。そして、それができない場合には、恐怖と不安が生まれるであろう。もしこういう作用が生じないとすれば、それはこうした本能に対抗する勇気のおかげである。とはいえ勇気は理性の働きではなく、恐怖と同じく感情の一種である。ただ恐怖が肉体上の自己保存を目的としているのに対し、勇気が精神上の自己保存を目的としている点に違いがあるだけである。勇気はいっそう高尚な本能であるといえよう。」

どうですか。勇気による自己保存を必要とする精神とはすなわち、ある種の「誇り」とか「自我」とか「価値」ということでしょう。それを守るためには肉体の消滅をも辞さないほどのものをあなたは持っていますか?

一つのキーワードは「美意識」じゃないでしょうか。

大河ドラマでは、何とかの一つ覚えのように、源平と戦国と幕末を飽きずにやっていますね。もちろん、たまには南北朝とか応仁の乱とか、はたまた平将門なんかも対象になったことがありますが、どうしても単発になってしまう。

筆者の意見は、そこに美意識があるかどうかがポイントじゃないかということです。南北朝とか応仁の乱とかは本当に大きな戦争で、戦い自体の見せ場はいくらでもあります。しかし、どうも美しくない。南北朝の争いなど、いくら水戸学派が後付でいろいろ意味合いを付与しようとしても、実態はただ解体のみで徒労感がありますね。
しかし、例えば、戦国、特に末期になると、やはり天下統一という大きな方向性が出てきますし、一つ一つのイベントにも意味が感じられます。また、美意識に殉ずるという行動が見られるようになる。こういう美しさが、この時代に人気があるゆえんかと考えます。

翻って、今の私たちの価値とは何でしょうか?狂信に陥ることは避けるべきですが、的確かつ迅速な行動が要求される状況にある中、その原動力であるであろう「勇気」はこうした価値観の共有無しには出てこないように感じるんですが。