制度設計における「境界」について

だんだん、週末ブロガーと化してきましたが、まあご容赦ください

少し旧聞になりますが、麻生さんが定額給付金(そういえばこの件、とんと聞かなくなりましたね)について、高額所得者に支給しない、あるいは支給辞退を求めるといった議論がありました。あるいは、その取り扱いを書く自治体に委ねるという方向も出されていました。

筆者、一応、人事制度の設計に関わったこともあるのですが、そうした立場からすると、本当に政権担当能力の低下を実感しますね。
そもそも、基準とか境界というものは、制度設計者とその責任者が体を張って守るべきものなんですよ。というのは、自然科学と違って、こういう社会的な制度にははっきりした基準は客観的には出てくるわけがありません。しかし、それにもかかわらず基準を設定する必要がある場合というものは多々ありますね。
その場合、一つの決め手は、「社会的通念」とか「納得性」といったものです。要するに、かなり多数の人々の賛成が得られそうなレベルであるということが必要なわけです。また、納得性というのも考えてみればなかなか含蓄の深い言葉です。つまり、玉ねぎをむいていくと芯がないように、社会的な制度というものも、最後のところはいかに大勢の人が賛成するかという、いわば芯の無いものであるのがその本質であることが多いと思います。
もう一つは、「基準」というものの持つ基本的な性質、というか冷たさです。例えば、年収300万円以下の人に何かの給付を行う制度ができたとしましょう。その場合、年収301万円でもらえない人は納得できないでしょうね。しかし、制度設計者としては、「もし、基準が310万円だったらあなたはもらえるが、311万円の人は同じような不満を持つに違いない。そのそも、基準とか制度というものはこのようなものだ」と言い切るしかないんですね。もちろん、301万円から350万円の人には半額給付するという手もありますが、程度の差はあれ本質は変わりません。制度設計者と運営者はそこは突っ張らざるを得ない。まさに、堅忍不抜であることが求められるわけです。
それなのに、制度の根源である総理大臣が振れてしまったら制度自体が成り立ちませんよ。

因みに、この基準というもの、実は生き物でもあります。言い換えると、ある種の「トルク」を持つ場合があるんです。例えば、最近は撤廃されたようですが、相撲の新弟子試験の身長制限がそうですね。少なからぬ力士が、頭にシリコンを注射してこれをクリアしたのは有名な話ですが、当然、審査員はこれを知っていたわけです。にもかかわらず、これを黙認したのは基準の必要性は理解しつつ、少しでも緩和したいという動機が働いていたわけですね。これなどは、トルクの格好な例でしょう。

逆に、規則を盾に拒否しまくるお役人の振る舞いは、別な意味のトルクと言えるかもしれません。

基準というもの、なかなか奥が深いですよ。