集中力と余裕しろ

筆者、しばしばドライブをしますが、たいてい、音楽を聴きながらの運転です。しかし、同時に、運転中いろいろ考えを巡らせもします。昔から、いい考えが浮かぶのは、鞍上(乗り物に乗っているとき)、枕上(寝床で)、厠上(トイレで)などと言われているようですが、筆者の場合、鞍上が一番ですね。実は、このブログに書いている中身も相当部分、運転中の産物です。
そうはいっても、運転にも集中することも当然必要であるあるわけで、結果として音楽が一番後回しになる。ですから、気がつくと、曲がとんでもないところまで進んでいることもしょっちゅうです。
いつか聞いた話では、人間が知覚できる情報量というのは1秒間に数万ビットあるのに実際に処理できるのは数百ビットなんだそうな。ですから、高速走行なんかするとどんどん視野が狭くなったり、何かに集中すると他のことが目に入らなくなるというのもうなずける話です。
しかし、集中することが即いいのかというとそれはまた別の話で。風観羽さんが直近のブログで書いているように、集中=パラノ、という部分もあるからです。運転に集中すれば、回りの風景は目に入らなくなり、結局何のためのドライブか分からないが如きでしょうか。
そのためには、物事を処理する能力を高めることによって、あるいは100%の能力を使うことをやめることによって、常に遊びというか余裕しろを持っておくことが必要なのではと思います。

この面では、いくつか思い出すことが。

昔のオーディオブームの際には、筆者もかなりはまりましたが、当時はアンプの出力競争というものがありましてね。左右30Wずつとか60Wずつ(60W+60Wなんて言っていました)という数値と値段をにらめっこしたものです。
しかし、実際には日本の家屋ではほとんど大音響なんか出せないわけで、それなのになぜワット数にこだわったのかというと、最大出力に近いほど音が劣化する、言い換えれば最大出力から遠いエリアであるほど音が安定するということになっていたからです。真偽のほどはわかりませんが、何となく「余裕」というものの大切さを感じさせます。

次に思い出すのは、第二次大戦中の、日本とアメリカの飛行機です。日本の飛行機とアメリカの飛行機って、性能的な差がそれほど無い、あるいは日本機が上回る場合もしばしばありました。しかし、防御性とか稼働率なんかが圧倒的に違うんですよね。生産上の加工精度の問題とかいろいろあるでしょうが、大抵はエンジンの馬力に根本の差があったようです。つまり、日本機は非力なエンジンという制約条件をぎりぎりまで克服しようとする。そのために、軽量化をし空力上洗練もする。一方、アメリカ機は大出力を多少ムダにしても余裕ある設計ができるわけです。そのため、頑丈にできるし、サイズも大きめになって生産も整備も容易になる。また、ここが大事なんですが、実際に使ってみてからの対応、たとえば兵装のレベルアップなんかもできてしまう。アメリカ製の兵器は、グラマンにしてもシャーマン戦車にしても、はては飛行艇のカタリナにしても性能は平凡でも信頼性や生産性が高いものが多いでしたね。

三つ目は、昔、前衛舞踊の人から聞いた話です。最初は踊るのに一生懸命だが、技量が上がってくると、だんだん踊っている自分を客観的に見ている自分ができてくる。そして、さらに上のステップとして、周りで踊っている仲間のことを意識できるようになるとか。これは処理能力の総体が上がっているのか、はたまた少ない処理能力で踊れるようになったのでその分を他に回せるようになったのか、その辺は判然としませんが、これも余裕しろのなせる業でしょう。

それにしても思うのは、日本人は、この、余裕を持つのが下手のように感じます。というか、余裕を持つことに罪悪感を感じているのではと思うときがあります。有給休暇を余らすなんて、世界的に見てもあまり例がないのではと思われます。いや、エリートの場合はどこでもありうる話ですが、おしなべてというのはちょっとないでしょう。

司馬遼太郎が書いていましたが、ある知日派アメリカ人が彼の奥さんに、「実は中国人の方が好きなんだ。なぜなら、彼らはリラックスしてるからね」と言ったそうな。いろいろな解釈が可能ですが、長い歴史に鍛えられて余裕を持つことの大切さを民族として学んできたとも言えるのではと思います。我々も、余裕の効用を意識し、能力を高めるとともに、「やりすぎない」ことも心がけたいものです。