最近ちょっと驚いた2つのこと

最近読んだ本から、ちょっと驚いたことを2つ。

1、ミイラとりがミイラに
 なんて、よくいいますが、日本ってミイラの本場でしたっけ。確かに、出羽三山周辺を中心として、即身仏があるのは事実ですが、取りに行くものではないですね、かねがね、違和感があったことわざですが、昨年末に出た「毒と薬のひみつ」によれば、これはエジプトのミイラのことなんだとか。
 古代エジプトでは、基本的に死者はすべてミイラになったので、膨大な数のミイラが作られました。確かに、ヨーロッパのどの国立博物館にもエジプトのミイラがコレクションとしてあります。しかし、大半は盗掘されたようです。しかし盗掘後どうなったか。それが、特産品として輸出され、大得意先が日本だったんですね。
 日本では、輸入したミイラをすりつぶして、結核の特効薬として利用したそうです。建前は、ミイラを作る際に使われた秘薬が結核に効くということだったようですが、実際にはビーフジャーキーのような蛋白質補給の効果が主なものではなかったかというのが著者の推定です。
 それにしても、ミイラが薬とはねぇ。また、この貿易、江戸時代の開国以降なんでしょうね。そうでないと、「ミイラ」なるもののありがたみが分からないでしょうから。それにしても、エジプトミイラと日本の意外な関係でした。

2、宗教と振り込め詐欺
 ある巨大宗教教団の信者が、振り込め詐欺のターゲットになっているとか。なぜなら、「信ずること」に慣れているからだそうです。
 振り込め詐欺はともかく、この現象、宗教というものへの考察にいざなわれますね。確かに、純粋な意味では自分のすべてをさらけ出し、捨身することが宗教とも言えます。しかし、在家の場合、そこまでの信仰心を持つ人は普通の宗教ではあまり多くないでしょう。家の宗教とか、コミュニティとか、はたまたスポンサー(檀家)的な付き合いも多いと思います。
 しかし、新宗教の場合、生命力のようなものがまだまだ強い。というか、意識して加入した人の率がはるかに高いという面もある。それはそれで悪いわけではない。
 でも、宗教を信ずることが、すべてを信ずることにつながるというのもちょっとねぇ。筆者、人事的な仕事が長いので、人間のいろいろな面を見るわけですが、それでもなお、人間は信じたい。でも、無警戒な人間信頼というのはかえって何か不健康なものを感じてしまいます。現実逃避的なものがあるのではないかと。
 筆者、宗教というもの、体系よりもフィールドであってほしいと思っています。決まった教義よりも、その中でもがくことができる場を提供するのが宗教ではないかと。
 場でない宗教は案外もろいのではと危惧します。