辻邦生「背教者ユリアヌス」とキリスト教の確立について

先週末は何となく体調がすぐれなかったもので、一日中寝転んでいて、年末に日本で買ってきた辻邦生の「背教者ユリアヌス」を一気読みしてしまいました。大体、14時間ぶっとおしで、文庫本3冊分を読了しました。

まずの印象としては、タイトルに偽りありということです。いや、「背教者」というのは後世、キリスト教の世になってからつけられた「あだ名」ですから、別に偽りではない。ただ、「背教」というと、何となく後ろめたく、そこに至るまでに内面の苦悩があったのかと予想していたんですね。

しかし、ユリアヌスはあっけらかんと信仰を捨てる。というよりも、洗礼自体が、当時の風潮と環境(長らくキリスト教勢力に軟禁されていた)のなせる業で、それほど深いものでなかったということがあります。小説中、彼の兄が、彼らの伯父のコンスタンティヌス大帝がなぜキリスト教を公認したのかについて、「がたの来たローマ帝国をこの宗教の力で支えようとした」というくだりもありました。

でもまあ、そうでしょうね。だって、キリスト教が本当に社会に行き渡るのは、何と言っても中世からでしょうし、それだって、地付きの信仰と習合して土着した、何ともぬえ的で現世利益的なものでした。だって、大多数の人々(貴族も含め)は文盲で聖書の内容は理解できず、司祭は司祭でラテン語で聖書を読んでいるんで、およそ現代的な「信仰」ではない。「崇拝」」に近いでしょうね。もっとも、私たち日本人も彼らを笑うことはできません。だって、内容のわからないお経を、少なくとも表面上はありがたがっているじゃないですか。

それなのに、当時それほどキリスト教が力があったのは、宗教的な力というよりも、キリスト教の宗教者が読み書きできる唯一の層で、彼ら無しには統治ができなかったという面が強いようです。それだけに、当時破門されるというのは、ほとんど社会生活ができなくなることを意味していたわけです。ですから、中期中世以降、政治が独自の官僚を持つようになると、キリスト教の勢力が減退していきます。

ただ、ルターとか、それに先立つエラスムスなんかが、「内面」というものを発明します。言い換えれば、神との直接の対話ということになりますが、これによって近代的な宗教に脱皮し、同時に旧教も活性化される。キリスト教が現代的な意味での宗教に脱皮するのはやっとここからでしょう。

ちょっと、話が行き過ぎましたが、背教者ユリアヌスでもう一つ気がついたのは、キリスト教の、当時の教父たちの書き物が粗削りで、読むのに苦痛であるとの部分です。これは、初期のキリスト教がまだまだ素朴で、哲学的なバックグラウンドを持っていなかったということになります。多分、後世に影響を及ぼすだけの骨格は、アウグスティヌスあたりからなんでしょう。彼の時代には、ローマ帝国がまさに滅びんとし、彼自身、ヴァンダルの包囲のなかで息を引き取っているわけですが、そのような時代がキリスト教を鍛えたともいえるでしょう。

結論として、「背教者ユリアヌス」という小説、変に肩肘張ることなく、当時の状況を素直に描写しているという意味では非常に優れており、大変な労作であるということが言えるでしょうね。いや、ストーリーとしても波乱万丈で面白いんですが、筆者にとってはこの点が一番興味を引かれました。