人種差別

欧米に暮らしていて、どうしても感じてしまうのが、人種偏見というやつです。でも、国や地域によって、その様相はいろいろのように感じます。

まず、アメリカです。筆者、アメリカの中西部はミシガン州に暮らしたことがありますが、ここはアメリカの平均といわれるところで、もしもこれが普通のアメリカ人と見なすと、やはり表面上はフランクで紳士的な付き合いですが、どうしても内面にまではなかなか入っていけないですね。もっとも、アメリカ人は、「自我」を持たなければいけないという強迫観念がありますから、白人同士でも、いや夫婦や家族同士でもなかなか内面をさらけ出さないように感じます。
でも、一歩田舎に行くと、アメリカって本当に真っ白(白人のみ)なので、店に入っていくと一斉に視線を浴びます。イエローを見たことがない、という感じです。
これが南部ですと、黒人が一種の風格を漂わせており、棲み分けをしている感じになります。
カリフォルニアあたりになりますと、白人が少数派になり、どちらかというと少し肩身が狭いようにも思える。なかなか興味深いですね。

ヨーロッパで言うと、イギリスやドイツではかなり視線が痛い感じがします。フランスは中華思想の裏返しで、どことなく余裕を感じます。イギリスやドイツは、本質的に自信が無いんじゃないかと思います。面白いのは、同じドイツでも、旧東ドイツはどことなく柔らかい。背丈も低いし、威圧的な感じがない。きっと、彼ら自身、旧西から差別されているせいでしょうか。
スペインへ行くと、東洋人は穴が開くようにじろじろ見られます。遠慮が無い。まあ、それだけ素朴ということでしょうか。
東欧では、チェコプラハあたりでは、やはりかなり差別的な視線です。彼ら、東欧の中ではエリート国ですから、それだけ誇り高いということかもしれません。ポーランドでは、東洋人が少ないせいでしょう、非常に珍しがられますが、差別は感じない。

まとめて言うと、差別というもの、一種の自己防衛本能のように思います。フランスのように、余裕があると、露骨な差別をしなくても、自信がある。あるいは、とことん田舎であると、知らないことによって差別をしなくても済んでしまう。その中間が一番始末が悪い。

ナチスユダヤ人迫害なんか、第一次大戦の敗戦を「世界に冠たるドイツ」意識で乗り越えようとしたゆがみであると思いますし、太平洋戦争中の日本人のアジア人蔑視も、白人からの差別に対する自己防衛とみなしうるでしょう。

要は、差別というものを生み出す意識のゆがみというか、社会や集団の問題を常に注視することが不可欠であると切に感じます。