キッシンジャーの「外交」

今、年末に日本で買い込んだヘンリー・キッシンジャーの「外交」全2巻を読んでいます。やっと、上巻を読み終えましたが、監訳者の岡崎久彦氏が、最初の予定では半年で終わるはずだった訳が2年かかったと述懐しているように、かなり歯ごたえがあり、しかも寝ながら読むくせのある筆者にとって、腕が痛くなるような重量の本でもあります。上巻はだいたい、17世紀のフランスのリシュリュー外交から始まり、第二次大戦終了までを扱っています。
19世紀以降は、ほとんどドイツの強大さがもたらした混乱が記述の中心になっています。岡崎氏は、「ドイツへの抜きがたい警戒感」と書いておられます。確かに、ユダヤ系でナチスの迫害を逃れてきたキッシンジャーにとって、ドイツは許しがたい存在なのかもしれません。
しかし、見方を変えると、それはドイツへの「愛」ではないかとも考えられます。かのアインシュタインが臨終の際の最後の言葉がドイツ語であったっため、看取った人間に理解できなかったという話がありますが、多分、キッシンジャーのそれも、ドイツ語である可能性が高いように思います。そう考えると、実は潜在意識で、「世界に冠たるドイツ」を意識していると思われてなりません。
三つ子の魂百までと言いますが、故郷の持つ拘束力って、それだけ強いんじゃないかと。

ちなみに、ナチスユダヤ人の犯罪性を立証しようと、第一次大戦での戦死傷の率を調べたところ、ユダヤ人のそれが一般のドイツ人を上回って、ナチスが悔しがったそうな。

果たして、キッシンジャーの思いはいかに。