ヴロツワフという町

ポーランド南西部にヴロツワフ(Wroclaw)という、人口70万くらいの、ポーランドで4番目に大きい町があります。中東欧にありがちな、中心の広場が大きな、きれいな町ですが、これがなかなか複雑な歴史がありまして。

この町、西部ポーランドがどこもそうであるように、第二次大戦まではドイツの領土でした。ブレスラウという名は、よく歴史にも登場していました。それが、戦後、ソ連の手によってドイツから取り上げられ、ポーランドに与えられました。しかし、キッシンジャーの「外交」によれば、スターリンは、古代からのドイツ都市であるブレスラウを含む歴史的領土をポーランドのものとし、500万人のドイツ人を立ち退かせれば、ドイツとポーランド間の憎悪が解消不能になることを計算していたのだそうな。確かに、立ち退かされたドイツ人のうちの非常に多くがドイツへの途上に犠牲になったことなどに対する賠償問題がいまだに両国の懸案になっていますし、ルフトハンザでは、行き先表示が「ブレスラウ/ヴロツワフ」になっていたりします。しかし、ルフトハンザの対ポーランド便なんか、機内放送がドイツ語と英語だけで(普通は相手側国の言葉もありますよね)、ポーランドへの尊敬の念をちっとも感じさせないのも相当だという気もしますが。

そもそも、ヴロツワフを含む下シロンスク県の帰属も、国境となるナイセ川というのが2つあり、スターリンがむりやり東側の方を国境としたそうな。そんな経緯があるせいか、また、住んでいるのが現在はウクライナになっている地域から移住させられてきた人々であるせいか(これもスターリン時代の政策です)、社会的インフラの整備がちっとも進まず、今でも水道なんかドイツ時代のものが基礎となっているとか。

また、この町に車で行こうとすると、高速道路を降りて中心に向かう途上に、ソ連軍の戦車がどかんと置いてある地区に出くわします。これ、ブレスラウ攻防戦で亡くなったソ連軍兵士の墓地なんですね。何でも、ブレスラウ、要塞化されて防衛の一大拠点だったらしく、相当な激戦があったようです。そもそも、この地方、13世紀に侵入したモンゴル軍とヨーロッパ連合の大会戦があったところで、その際、ヴロツワフも攻囲を受けた歴史があります。いやはや、ヨーロッパの歴史もなかなか血なまぐさい。

最後に蛇足ですが、歴史といえば、ヴロツワフ中心広場の市庁舎(非常に美しいものです)の地下に、「シフィドニッツァの地下室」という、13世紀から続くというレストランがあります。ワインセラーのような、重厚な雰囲気なんですが、店の前に貼ってあるメニューの縁取りがコカコーラの絵でしてね。もうちょっとどうかならなかったのか、あれにはがっくりしましたね。