散りぎわについて

先日、オペラをまた聴きに行きまして。
今回は、ヴェルディの「椿姫」。貴族相手の高級娼婦のヒロインが、青年貴族と恋仲になったものの、青年の父親から諭され、身を引く。最後は、肺結核に冒され、駆けつけた青年の腕の中で息を引き取る・・というストーリーなんですが、問題は最後の死ぬ場面です。まあ、その元気なこと。というか、アリアを30分くらい、がんがん歌い続けるわけです。もちろん、最後は息を引き取りますが、始めて聴いた人は、このヒロインが死ぬなんて信じられなかったでしょうね。このオペラ、初演は、ヒロイン役が太りすぎていて失敗だったという説があるようですが、それだけでなく、曲自体との相乗効果でしょうね。
思い出したのは、新婚旅行の際に、ウィーンのシュターツオーパーで聴いた「シモン・ボッカネグラ」の最後の幕で、毒を盛られて死にかけた主人公がよろよろ出てきてはやはり30分くらい歌いまくったことですね。あのときは、オペラ初心者だったのと、時差ぼけとで、二人でお互い、眠りかけた相手をつつきあいながら聴いていて、シモンが死んだとき、「やっと死んだー」と安堵した記憶があります。
まあ、これはオペラに限ったことでなく、「太陽にほえろ」の松田優作に見られるように、主人公というもの、死ぬのに時間がかかるものではあります。
しかし、あの画家のモディリアの死のエピソードなんか知ってしまうと、やはり相当脂っこいものを感じてしまいます。彼も、貧困と飲酒の中で肺結核に冒され、最後に「なつかしいイタリア」と言い残して死に、残された身重の妻が翌日飛び降り自殺をする・・ということになっています。いつか行った「モディリアニ展」でも、出口に青空の写真をバックにこのフレーズが掲げられていました。
しかし、実際は、「なつかしいイタリア」と叫びながら、部屋中大暴れしたそうな。いや、もしかしたら、断末魔の苦しみだったのかもしれませんが、それにしてもねぇ。宮沢賢治の「永訣の朝」とはえらい違いです。

丁度、桜の季節、散り際の潔さが日本人に愛される理由の一つと思いますが、確かにそうでしょうね。しかし、最後までエネルギッシュであるという価値観というか、風土もまたありうるということではあります。諦めが良すぎる必要は必ずしもないのではと思うこのごろです。