寺山修司

イースターウィークエンドは、チェコにいたんですが、その間に栗原裕一郎氏の「<盗作>の文学史」を読みふけっていて結局約500ページを読了できました。自ら、「文芸における盗作事件のデータをここまで揃えた書物は過去に例がなく、類書が絶無に近いことだけは自信をもって断言できる」と言うだけあって、日本の過去の事件はすべて網羅された観があります。まさに、「労作」というに値する本です。
面白いのは、法律的には、「盗作」という概念はないんですね。あるのは、「著作権法違反」だけであり、しかも、それが成立するには、相当な要件が必要とのこと。もう一つが、マスコミ的な意味での「盗作」で、これは主に新聞社独自の基準によって「盗作」として取り上げられることを意味しています。氏の著作によると、この「基準」が相当いいかげんで、マスコミ批判の書にもなっています。
ところで、筆者にとって「盗作」「剽窃」というとすぐに浮かぶのが寺山修司ですね。高校時代に読んでいた百目鬼恭三郎の「奇談の時代」に、本田勝一寺山修司の作品と青森の土俗的な文化との関係について問うた時に、百目鬼が、「彼が剽窃小僧として有名なのをご存知か」と一喝する場面があります。要するに、そんな根の深いものじゃありませんよ、と言いたかったんですね。
彼については、例えば、俳句を短歌に引き伸ばしたような作品が散見されるとの評がありますが、筆者にとって印象深いのは、合唱部で黒人霊歌を取り上げたときに、曲のひとつに「時には母のない子のように」というものがあったことです。そう、あまりに有名な、カルメン・マキ歌うところのあの曲の元ですね。作詞を寺山が行っています。
まあ、曲自体は全く違い、寺山はこのタイトルのみに触発されて曲を作ったのは明白なんですが、それにしても、カルメン・マキ(この名前自体も、今では相当胡散臭いですね)の歌のインパクトがこのフレーズにあることは明白でしょう。
また、今回、栗原氏の本で知ったんですが、あの「書を捨てよ、町へ出よう」も、元ネタがあったんですね(アンドレ・ジッド「地の糧」)。
まあ、寺山は、アレンジの天才だったと言うことでしょう。確かにいろいろ勉強している。そこから、これはというネタを発掘し、時には加工し、世に出すというわけです。その意味では、才人とは思いますが、今、どんどん忘れ去られているように思えるのは、やはりその浅さゆえでしょうか。盗作とはいえないものの、「オリジナル」なきものの宿命でしょうか。