歴史人口学からの妄想

先月、当地TVの日本チャンネルでやっていたNHK「爆笑学問」は衝撃的でした。テーマは歴史人口学で、上智大学の鬼頭宏教授がゲストだったんですが、一番印象に残ったのが、「弥生から奈良朝にかけての日本の人口増加は外からの流入なしには考えられない。奈良朝初期は8割くらいが渡来人の子孫であるとの説が有力」という点でした。
で、日本に帰国した際に、早速先生の著書を買い込んで飛行機の中で読了しました。

まあ、昔から日本神話の東征伝説とか、その昔の騎馬民族説など、列島外からの流入を示唆するものはいろいろありますが、ここは筆者も想像を逞しくしてみるとしますか。

まず言いたいのは、この時代、大陸では繰り返し大動乱があったということです。弥生初期は戦国末、そして前漢から後漢、さらに三国、五胡十六国から南北朝まで、繰り返し戦乱の時代が来ます。もちろん、その間には繁栄に時代があるんですが、それにしても動乱期の凄まじさは我々日本人の想像を超えます。例えば、前漢代に5000万人くらいを数えた人口が、後漢に移る際に一旦半分になり、その後回復したものの王朝末期の騒乱を経て三国時代には五分の一くらいに激減しています。さらに、晋から五胡十六国にかけてさらに人口が大幅に減り、農業生産にも支障をきたしたとか。
もっとも、近世でも、例えば蒋介石日中戦争中に防御のため黄河の堤防を切った際は25万人から40万人が死んだと言われていますから、彼の国の災厄は桁が違います。
もちろん、飢えや戦争での実際の人口減だけでなく、政府の弱体化の中での補足率の低下なんかもあったとは思いますが、それにしても凄まじい。

でも、人口減の要員は、他国に逃げ出したという面が十分に考えられます。大体において、中国では戦乱のたびに南部が開発される傾向がありますね。そのため、今ではすっかり南部が経済の中心になっています。

それはともかく、日本の人口増加は、こうした動乱の影響があったと考えるのが自然でしょう。

とりわけ、日本の社会が大きく変わった4世紀なんかは、そうした動きが大きかったのではと思います。といいますのは、それまでとは比べ物にならないほど、巨大な古墳が造られるようになり、明らかに「権力」というもののイメージが変わったように思えるからです。4世紀ごろは、丁度先ほどの三国時代から五胡十六国の乱の最盛期であり、単なる移民というよりも、何らかの権力がワンセットずつ移ってきた可能性がありますね。「ずつ」というのは、必ずしも後のヤマトだけでなく、出雲とか諏訪(少なくとも安曇は渡来人系らしい)なんかがまるごと移ってきて、その地に小権力を扶植した可能性があると考えているからです。
こうした権力の中には、中国に対する「正統性」を有したものもあったのではないか。例えば、仁徳天皇陵(最近は大仙陵古墳というらしいですが)を始めとする古墳も、以前は豪族の権威の象徴とされていたのが、この頃では海外から入港する船への示威との見方が有力になっています。これも、日本が単なる朝貢国であったのなら、そこまで見栄を張る必要は無かったでしょう。むしろ、何らかの正当性を有していたからこその示威行為であったように思えるんですね。

同じような話は、朝鮮半島にも言えるかもしれません。当時、高句麗という国がありましたが、魏晋南北朝ののち、中国を統一した隋が、なぜか執拗に高句麗攻撃を行うんですね。第二代の煬帝なんか、三回も遠征軍を送り、ために国自体が傾いてしまうんですが、もしも、高句麗が中国に対して何らかの正当性を有していたとしたら、この攻撃の理由もうなづけます。何しろ、隋も、あるいはそれを継いだ唐も、異民族出身の、それこそどこの馬の骨かという分子でしたし、時代は貴族制の、血統がやかましかったころですから、王朝としては自分たちの正当性に対しては大いに不安があったわけですね。ですから、正統性を有した独立勢力は叩き潰す必要があったんじゃないかと思えるんですね。

ちなみに、高松塚古墳が発見されたとき、それまであまり注目されてこなかった高句麗の影響が濃厚であったことで、日本の古代史は大きく書き換えられましたし、後に、高句麗の末裔たちが建てた渤海国から使者が来たときに、日本の貴族たちが非常に懐かしい気持ちで迎えたと伝えられており、何らかのネットワークがあったとしても不思議ではありません。

こうしてみると、例の聖徳太子から隋の煬帝への「日出づる処の天子、日の没する処の天子に書を致す」云々の手紙も、単に対等の外交を目指したというよりも、「こっちにもそちら程度の正当性はあるぞ」という意味とも取れますね。

などと妄想はいくらでも広がっていくわけですが、本日はひとまずこの辺で。