名前のヴァリエーション

筆者、アメリカに駐在していたときに、ニックネームをもらっていました。筆者だけでなく、日本人はほぼ全員持っていましたね。
実際、無いと非常に不便なんですよ。というのは、日本人の名前はアメリカ人にすっと入っていかない、あるいは覚えられないようです。どうも、彼らには、限られた名前のストックがあって、そこから取り出しているに過ぎないようなんです。ですから、既存の名前を記号にせざるを得ないわけです。また、新しい名前はなかなか生まれない。
もっとも、昔読んだ伝記で、ニューヨークのブルックリン橋を親子二代で完成させたローブリングは、父親はジョンでしたが、息子はワシントンで、もちろん初代大統領のワシントンからとったものでしたが、こういうのは例外で、かつ、誰でも知っている名前(でも、オリジナルは苗字なんですが)だから受け入れられたんでしょうね。

それ以上に、ヨーロッパのいくつかの国では、構造的に新しい名前を作り出すことが不可能になってさえいます。
というのは、それぞれの名前に守護聖人がついており、かつ、その守護聖人は1年の中で自分の日を持っているので、その日がその名前を持った日のアニバーサリーになっているんです。
例えば生まれたときにジョン(実際には英語じゃないでしょうが)という名前をもらい、命名式の日に改めてその日が守護聖人であるポールと言う名前をもらうようなものですね。ですから、365個以上の名前をつくりだすことができないということになりますし、同じ名前の人が大勢いることになります。もっとも、時代によりはやり廃りはあるようですが。

それに引き換え、日本の名前のヴァリエーションの豊富さは世界随一じゃないでしょうか。しかし、最近は昔の基準からすると非常に奇矯な名前や難読名が増えているようですね。筆者は、両親がともに読み方が一通りでない名前であったため、他に読みようが無いないような名前ということで命名されたと聞かされています。それだけ、難読名はいろいろ不便なんでしょうね。確かに、子供の名前に親心を込めると言うのは日本の習慣に許された素晴らしさなんですが、実用性を犠牲にするのは本当に子供のためになっているのか、考える必要があるんでしょうね。