ものづくり議論に思う

風観羽さんのブログから伝って大西宏さんとか中谷教授の議論を読みまして、筆者も考えさせられるところ大です。何しろ、筆者、毎日菜っ葉服を着て製造現場にどっぷり漬かっているものですから。

まず、「ものづくり」が日本人のDNAに根ざすわけではないということは、「品質」に着目するとその通りでしょう。それから、「ものづくり」は単なる改善でなく、イノベーティブな品を提供するクリエイティビティにあるのではという点も同感です。

しかし、これらの議論には、いくつかの前提が必要ではないかと思いますね。

まず、日本人には少なくとも、学習し消化する能力と、それを洗練する能力は高そうだということです。明治以降の工業化は、基本的にモノの新技術との出会いだったと思います。そして、それを懸命に学んだ。結果的に、戦艦大和二式大艇、九二式機関銃のような高い技術を持ったモノを生み出したわけですね。筆者、あえて、ゼロ戦(本当は零(れい)戦)を挙げませんでしたが、ゼロ戦は基本的に改善技術に属すると考えています。アメリカ機の半分の動力しかないエンジンで、必死に空戦性能を追求するために、極限まで削ったのがゼロ戦でしたから。
それはともかく、戦前はモノの新技術との出会いでしたが、戦争を通じ、アメリカのソフトの技術の高さに瞠目しました。それが標準化であり、ORのような統計技術だったんですね。戦前の日本の最先端技術の産物は、残念ながら品質管理とか標準化の面で非常にプアでした。ですから、製品のヴァリエーションが増えるだけでなく、補給部品がしばしば使い物にならないことがあったようです。公差管理の甘さでしょうね。対するアメリカですが、製品の完成度は低いものの、標準化はきっちりとされ、また、設計に余裕があるのでバージョンアップも容易だったようです。戦後、日本人は、このようなアメリカの行き方を猛烈に勉強し、自分のものにしていったんですね。
もっとも、日本人の咀嚼能力の高さは昔からのようで、例えば、開国直後に座礁した外国船をたちまち修理したり、幕末に洋行した留学生たちが、しばしば現地での説明を既知のものとして退屈しながら聞いていたなんて話がありますね。まあ、日本は昔から中国文化圏だったんで、消化はお手の物、というか消化を邪魔する変なプライドがないということなんでしょう。

もう一つは人材です。ヨーロッパで仕事をしていると、しばしば人材のばらつきに泣かされることがあります。正確には、日本人指導者が泣かされているということですか。そういう場合、筆者、よく、「人材の集め方が違う」と説明しています。どういうことかといいますと、日本では、大企業は結構全国区で人集めをしています。勢い、上澄みを持ってきているわけですね。しかし、進出先ではそうはいきません。ある地域に進出すると、限られた地域からのみの採用になります。そうすると、平均レベルはどうしても日本には及ばないわけですね。
日本のように、現場での作業者に改善やら品質管理やらを要求するのは、基本的に高い人材が集まるからだと思うんですよ。見方を変えると、そういう高い知的能力を持った人に実作業をやらせているわけで、ある意味非常にぜいたくな人の使い方ですね。
で、このような、製造業への人材の集積度が落ちているのかどうかですが、アメリカとの比較では、まだまだ高いのではないかと思います。少なくとも、自動車や電機という、伝統的な産業へも人材が集まり続けているといえるでしょう。というか、多分、アメリカなんかで特に理系人材が多く軍隊や軍需産業に吸収されているのに比べて、日本の場合、産業界は人材の獲得と言う意味では恵まれているように思います。決して、金融やIT産業との競争だけじゃないと思いますよ。

問題は、これらの条件が、そっくり中国にも当てはまりそうだと言うことです。アメリカとは違いを感じますが、中国には同じような咀嚼力の高さや人材の集積がありますね。ですから、これからの日本の「ものづくり」は、咀嚼から新たなものを生み出すこと、例えば、アメリカ由来のTQCから日本的なリーンな生産方式を生み出したような、イノベーション力が求められているんだと思います。もちろん、今までの技術力・改善力を保ったままで。結構、難しい道だとは思いますが。