ジェンダー論

厚生労働省の局長の逮捕もあいまって、筆者の周りでジェンダー論がわきあがっています。というのは、報道のなかで「女性局長」と強調されており、働く女性の憤慨を誘っているんです。「女性」は関係ないんじゃないか、何で「女性」を強調されるのかということです。確かに、女性であることは全然関係ないですね。
まあ、マスコミは相変わらず男性社会というか、すぐに「女性」とか「美人」とかつけたがりますね。多分、女性であることに依然、希少性があるからなんでしょう。というか、希少性があると信じられているんですね。

問題は、その奥に、「女性」であることに対する偏見と言うか、ある種のレッテル貼りがあることです。昔、アメリカに駐在していたときに、ある日本人が女性の部下に、「女性であるあなたがこんなにいい仕事をして大変感銘を受けた」と発言して大騒ぎになったことがありました。本人は褒めたつもりなんですね。こういう、無意識の差別感が一番始末に困ると思っています。

実はレッテル貼りというのは、人間の本能の一つだと思います。五味太郎氏の絵本に、原始人が大きくて恐ろしい動物に「マンモス」と名をつけると何か安心して立ち向かえるようになるという場面がありました。概念として固定化すると、取り組みが可能になるということですね。でも、こういうレッテル貼りというかステレオタイプ化はしばしば行き過ぎるようです。
マンモスの例にあるように、レッテル貼りは対象の固定化とともに、自己防衛のなせる業のように思います。一つには、対象を単純化して自分が優位に立とうとすることと、周りの世界をそうした単純化されたユニットの集合体とすることによって「自分は何でも知っている」と思いたがっているんじゃないかということです。本当は、一人ひとりの個性を見るべきなんですが、そうすると自我が崩壊してしまう人がいるようですね。女遊びって、そういう思考の延長線上にあるような気がします。

こういうレッテル貼りって、最後はファシズムにつながりますよ。ヨーロッパにいると、定義も怪しい「ユダヤ人」であることを理由に膨大な数の人々が殺された歴史をいやというほど見せ付けられます。それだけでなく、ナチス精神疾患の患者や同性愛者などを抹殺しようとしていましたね。彼らにとっては、愛すべきは生身のドイツ人ではなく、概念上の「世界に冠たるドイツ民族」だったわけですね。自分自身さえレッテル貼りの対象としてしまった当時のドイツ人の心象風景を考えるだに寒気がします。

ただ、女性論に戻りますと、女性であることに甘えている例が無いわけではありません。スポーツの男女別はまだ許せますが(それでもゴルフなどで性別の差を乗り越えようという例もあり、高く評価したいです)、女流将棋なんて完全に甘えですね。女流何段なんていっていますが、一般の段位からはるかに格落ちとのこと。少なくとも知力にはハンディキャップはないはずですので、早くこのようなカテゴリーをなくして欲しいと願っています。