ハプスブルクの残光

それにしても、久しぶりのウィーンでした、実は前回の訪問から22年もたっていたんですよ。しかし、基本的には何も変わっていませんでした。まあ、観光で食べている町の性格からして、しょうがないんでしょう。相変わらず、18〜19世紀のマリア・テレジアとかフランツ・ヨーゼフとか世紀末美術とかが売りなんですね。

とはいえ、威容といい風格といい、さすがは大帝国の首都だっただけのことはあります。チェコとかスロバキアとか、東欧を旅していると、本当にひなびたところが多いんですが、彼らの誇りの中に、「ウィーンの王様」があったことは想像に難くありません。つまり、ウィーンの余光に浴していることの快感ですね。プラハなんかも、それはそれでいいんですが、どうしてもウィーンという太陽の周りを回る衛星都市的な匂いがしないでもないです。

かのチャーチルは、第一次大戦後にオーストリア帝国を解体したのは間違いだったと述懐したそうですが、実際、解体によってこの地域がドイツとソ連の草刈場になってしまいました。確かに、チェコスロバキアハンガリーも民族としてのアイデンティティを有してはいるんですが、何分人口のサイズが小さすぎて。
また、普墺戦争に負けた後のハプスブルク帝国って、民族間の平等を目指していろいろな実験をしているんですよ。今から見たらそれこそ先進的な。しかし、隣のドイツ帝国が「世界に冠たるドイツ」的な強烈なイデオロギーを引っ提げてくると、ひとたまりもなかったんですね。
しかし、第一次大戦後から第二次大戦、さらに冷戦期のこの地域の苦難の歴史を思うと、ますますハプスブルクの消滅が惜しまれます。

丁度、第二次大戦前夜、オーストリアナチスドイツによって併合された日のことですが、あるオーストリアの歴史家が、多分ハンガリーでだと思いますが、一人の酔漢にからまれ、その酔漢が「やつらは俺たちオーストリアを併合しやがったんだ!」とチェコ語で叫ぶのを聞いて涙を禁じえなかったと書いています。それだけ、ハプスブルクの栄光が行き渡っていたということなんですね。

いまでは、オーストリア共和国は首都に人口の半分が集中するという奇形国家になっていますが、この事実自体、この地の複雑さを表わしていますし、ウィーンのたたずまいも、さまざまな思いを無限に掻き立ててくれるがごとくです。

というわけで、東欧各地を回った後のウィーン訪問はまた格別のものがありました。