スロヴァキア紀行(その1)

この間、少し長めの休みがあったので、3泊4日でスロヴァキアに行ってきました。スロヴァキアというとどんなイメージがありますか?きっと、チェコと一緒だった国くらいじゃないでしょうか。しかも、旧のチェコスロヴァキアのイメージのもとになっている、例えばボヘミアガラスとかプラハとかは、すべてチェコのものですから、スロヴァキアについて言えば具体的イメージは皆目ないのが普通でしょうね。筆者もそうでした。
で、今回はスロヴァキアの世界遺産を全部回る旅を計画してみたんです。

今回は、スロヴァキアの北側にあるポーランドのクラコフを出発点にしてドライブを始めました。ところが、出発してすぐに何回も渋滞に巻き込まれてしまいまして。
一つは、ポーランドのスキーのメッカであるザコパネの近くで国境線を越えようとしていたんですが、このザコパネ、夏は登山のメッカでもあるんですね。聞くと、ポーランド人の登山スタイルはケーブルカーやロープウェイで頂上まで登り、そこからゆっくりと徒歩で降りてくるものなんだそうな。確かに、国境線近くにはヨーロッパには珍しい巨峰が並んでいましたね(大体、ヨーロッパはアルプスを除くと本当に高峰が少ないんですよ)。この人出に巻き込まれたわけです。
もう一つは、道路工事です。2012年にはサッカーのユーロカップポーランドウクライナの共催で開かれる予定になっており、各地で工事が進んでいます。ヨーロッパにおけるユーロカップの盛り上がりって、それこそオリンピックをはるかに凌いでいまして、この両国は丁度東京オリンピック前の日本と同じような状態になっているようなんです。
そんなこんなでやっと国境を越えたんですが、スロヴァキアに入ってからも相変わらずしばしば道路工事に出会います。ポーランドもそうですが、EU加盟国って、開発度の低い国の場合、EU本部からいろいろ補助金が出るようなんですね。ですから、旧東欧諸国って、どこも道路工事ブームということなんでしょう。

さて、最初の目的地は、ヴルコリネツという山あいの集落です。実はここ、筆者のカーナビで出てきませんでして、ガイドブックの最寄の町であるリュジョンベロックをとりあえず目指して走り出しました。まあ、確かにリュジョンベロック近くになると、道案内の標識が出始めたんですが、途中から、本当かと思うほど細い道に入りまして。で、ようやくたどり着いたんですが、実にただの山村でしたね。どうも、昔の生活が保存されているということで世界遺産になったようですが、よくわかりません。村は全部で45戸だそうですが、家々の中には変にペンキが塗られているところもかなりあり、また、ちゃちな売店があったり、そもそも入村料を取られたりして、世界遺産の登録で雰囲気はすっかり変わってしまったのではと感じさせられました。
それでも、本当に山の斜面の中にあって、どうやって生計を立てているのか。また、ヨーロッパの町の例に漏れず、ちゃんと教会もあり、昔の生活をしのぶよすがが無いわけではありませんでしたが。ちなみに、トイレを使おうとしたら、その前で読書をしている美人の女性が実は番人で、小銭と引き換えに渡された鍵がえらく大きかったのが変に印象に残っています。

そこから、中南部のバンスカー・ビストリッツァに。ここは、人口9万人ほどの中都市なんですが、まず、広場に行くといきなりソ連軍の記念碑があって面食らいました。その後、スロヴァキア民族蜂起博物館に。博物館の前には、ソ連軍のT34/85戦車とかドイツ軍の4号戦車後期型、3号突撃砲などなどが無造作に置かれていて少々びっくり。博物館も、確かに大戦末期の蜂起についての展示もさることながら、ドイツ軍やソ連軍の展示が実に充実していてまた驚かされました。兵器マニアにはこたえられない場所ですね。
さて、ここで分かったのは、スロヴァキアは最初、ドイツのチェコスロヴァキア併合の際にスロヴァキアとしての独立性の欲求を満たされたため、親ドイツだったようです。しかし、圧政に耐えかね、1944年夏に反乱を起こし、2ヶ月で鎮圧されたものの、その後もゲリラ活動を続けたとのこと。その反乱の一つの拠点がバンスカー・ビストリッツァだったということです。最終的に、ソ連軍の侵攻によって、親ソ政権がたてられるわけですが、その際に、パルチザンのかなりの部分がブルジョア分子として弾圧されたことも展示されていました。もちろん、最近できた展示でしょうね。
また、大戦後、ドイツ系住民が追放されたのは有名な話ですが、実はハンガリーとも「民族交換」を実施しているんですね。どうも、ハンガリーとは歴史的にも領土を取ったり取られたりの歴史が続いており、この紛争の最終解決として、多分ソ連主導と思いますが、スロヴァキア国内のハンガリー系住民とハンガリー国内のスロヴァキア系住民がそれぞれ数万人単位で相手の国に移住させられたとのこと。もちろん、ドイツ系住民よりもはるかに平和裏に行われたんでしょうが、それにしても凄まじい。改めて、ヨーロッパの歴史の過酷さを思い知らされました。
この町でホテルに投宿したんですが、ホテルのフロント係がレストランのウエイターを兼ねていました。また、建物が相当くたびれ、またところどころ工事中で、嫌な感じがしましたが、実際に部屋に入ってみると改装直後らしくピカピカで、またまたびっくり。いや、この国も至るところ普請中と言うことですね。
ちなみに、ホテルの隣が劇場だったんですが、週末はオペラも上演されるようで、本当に観劇とかオペラ鑑賞ってヨーロッパ人の生活の一部なんですね。

取りあえず、第一日目の報告まで。