スロヴァキア紀行(その3)

さて、3日目、まず、コシツェの町を散策。この町は、東ヨーロッパにしては珍しく川沿いではなく、また、緑地帯をはさんだメインストリート(といっても1キロくらいですが)を中心とした変わった形をしています。
まず、朝一番は、フランティシュカー・ラーコーツィ博物館と隣のコシツェ歴史博物館(旧監獄)の見学に。9時からガイドツアーありとのガイドブックの情報だったので少し早めに行ってみましたやはり開いておらず。観光客が時々来ては、あきらめて帰っていきます。一人、上品そうな婦人がいつまでも待っている。結局係員(かわいい女の子)が来て開いたのは9時15分。のんびりしたものです。すると、待っていた婦人も実はスタッフでして。どうも、この辺、よくわかりません。
まず、フランティシュカー・ラーコーツィ博物館を見学。ここは、ハンガリーハプスブルク家の支配から独立させようと奮闘した闘士の記念館で、彼は闘争に敗れた後、オスマントルコに亡命したんですね。で、トルコでの邸宅が2階部分に移設されています。何で、ハンガリーの英雄の記念館がスロヴァキアにあるかというと、この町が長らくハンガリー領だったということなんです。
ところで、何人かで見学していると、若い女の子だけでなく、婦人の方もついてきます。どうも、監視しているような感じです。実は、東欧ではときどき同じような経験をします。前にワルシャワ国立美術館に行ったときのことですが、この美術館が結構ルートが枝分かれしていて、その枝に入ろうとすると、スタッフがついてくるんですね。何だか、社会主義の名残を感じてしまいまして。
ここを見学後、隣の牢屋跡に。単なる牢屋というよりも、拷問部屋的な展示が多くありましたが、この拷問具の類、ヨーロッパでは結構いろいろなところで目にしますね。それだけ、ありふれているということでもあります。
さらに、東スロヴァキア博物館に。ここは、20世紀に工事現場から発掘された大量の金貨などが呼び物なんですが、この展示がある分館は工事中で閉鎖。まあ、せっかくと思って本館を見てみましたが、大きな博物館なのに貸切状態でした。で、ここでも、係員が親切に待機していてくれます。いや、別に悪気は無いんでしょうが、これがこの辺のスタイルなんでしょうかね。
さて、この日は少し早めの昼食をベトナム料理店、といってもファストフードのようなところでとりました。散策の途中で見つけた地下の店なんですが、多分ベトナム人とおぼしき男女(ほとんど高校生くらいにしか見えない)がやっており、筆者を見ると本当に嬉しそうで、ニーハオなどと話しかけてくるんです。考えてみたら、ポーランドを発って以来3日間、東洋人を見たのはこれが始めてでしてね。向こうも、本当に久しぶりの東洋人だったんじゃないでしょうか。どういう経過でこの町に来たのかはわかりませんが、必死で生きてきたんでしょうか。思わず、チップをはずんでしまいました。

昼食後、100キロほど離れたレヴォチャやプレショフなどの町を見学した後、スピシュ城へ。ここは、幹線道路のトンネルを抜けると、平原の中の岩山上に忽然と現れましてね。なかなかの迫力です。ここは、モンゴル人に対する備えとして13世紀に建築が始まったそうですが、18世紀に火事になり、いまでは廃墟となっていますが、その威容からでしょうか、世界遺産になっています。で、車をふもとに置いて、ふうふうと登ることに。
しかし、廃墟とはいえ、さすがスロヴァキアで第一の観光地だけあって、ようやく日本人のグループに出会いました。聞くと、スロヴァキア駐在の会社員の方々で、単身赴任者が語らって小旅行に出たんだとか。しかも、一社ではなくいろいろな会社の方たちで、いかにも方を寄せ合って暮らしている感じがしました。

それはともかく、考えてみると、たったこれだけの旅行の中で、オスマントルコに備えた城あり、ハプスブルクに反抗してオスマントルコに亡命する闘士あり、はたまたモンゴルに対する防衛拠点あり。さらに、隣国ハンガリー旧ソ連との国境紛争あり。実際には、翌日、もう一つ、世界遺産になっているバルデヨフを見学して帰りましたが、この町も城壁と砦に囲まれた町でしてね。

まとめて言えば、現代のスロヴァキアは山がちで自然に恵まれた、ある意味のんびりした雰囲気の国ですが、そこにはいろいろ過酷な歴史があるということを改めて知らされました。ある意味、ヨーロッパに暮らすのって、本当に大変だったんだということを実感しますね。帰ってから、しみじみと反芻させられる旅でした。