標準化ということ

畏友風観羽さんが、標準化の持つ危険について書いていたので、筆者も少し。

確かに、マクドナルドの接客などでも標準化は見られるわけですが、もともとは大量生産の現場の発想かと思います。

で、なぜ標準化するかというと、まずは安全と品質の確保のためですね。作業者ごとにやり方が違うと、危なくてしょうがないですし、製品の品質も安定しない。

しかし、もう一つ大事なことは、いわゆる「改善」は標準化があって初めて可能であるということなんです。どういうことかと言いますと、生産現場における改善とは、個人の一回限りの行動でなく、標準化された作業の変更であり、かつその効果が計られる必要があるということです。一回限りの行動は、「応用動作」と称され、後に残りません。それに対して、改善は決められた行動様式の変更ということになりますし、何より、効果測定のためには、変更前と変更後の行動が固定的であることが必要ですね。で、変更にあたっては、作業者だけでなく、管理者によって安全や品質上問題がなく、かつ何らかの効果(コストだけでなく、安全や品質そのものも含め)が見込めることが確認され、承認されるというプロセスが不可欠です。ですから、提案制度というものも、単に作業者の自主性を引き出すためというより、こうしたプロセスとしてとらえるべきものなんです。

もう一つのポイントは、そういう改善をビルトインするためには、標準化の中に、「チェック」を組み込むことが有効であるということなんです。つまり、作業者に対し、「どうせよ」だけでなく、「どこを見ろ」ということを指示するんですね。実際、機械というもの、実によく壊れますし、仕入れる材料やパーツだって不良品が混じっている可能性があります。ですから、作業者を単なるアクターではなく、チェッカーとすることは品質の確保上、不可欠なんです。また、作業者も、その方がオーナーシップが高まる、というか仕事がはるかに面白くなります。

というわけで、標準化はそれだけを追求すると、まさに人間のロボット化です。そもそも、大量生産の現場というのは、常に人間疎外のリスクと隣り合わせです。しかし、標準化は避けて通れないものでもあります。しかし、改善を組み込むことにより、それ自体を目的化するのではなく、標準化をツールとして使いこなすことができるようになるわけです。

確かに、現代のITの世界は、アートに近い部分が多くあります。しかし、それだけでは徒花になる危険性があるようにも思えるんですね。ですから、個人の発想力のエリアと、豊かな意味での「標準化」のバランスがこれからの産業にも必要だと思えるんですが。