マスコミの誇大報道について

まあ、いまさらですが、毎度マスコミの報道の大袈裟さには辟易させられます。

例えば、お盆の交通渋滞の報道なんかもそうですね。毎度のパターンでおよそ生きた情報と言うものがありません。特に、乗客へのインタビューってやつは、何のためにやっているのか理解に苦しみます。唯一有用なのは、混雑率ですか。明らかに昔ほど込まなくなっているのが長い目で見るとわかりますが。

一体、マスコミの誇大報道癖と言うのはどこから来るんでしょうか。

まず、あるのはマスコミが「商売」であるということです。つまり、騒げば騒ぐほど、新聞は売れ、テレビは視聴率が上がる。つまり、儲けになるわけです。これは、まあ、当たり前ですね。
もう一つは、自らが行う報道が社会に認知されたいと言う欲求です。基本的に、マスコミって書生っぽいところがありますし、ここの記者にとって見れば出世にもかかわるでしょうから、これは大事な契機です。

しかし、より本質的には、受け手の方にそのような姿勢を受け入れる傾向が強くあると言うことでしょう。というか、マスコミは情報消費者からの欲求によってこのような報道姿勢をとらざるを得ないと言う面が強いように思います。
なぜかというと、現代人である我々って、常に情報のフローの中で生きることに慣れきっているからです。

もともと、ヒトは、常に意情報を処理しながら生きています。もっと正確に言うと、情報を処理し、安全を確認しながら生きていると言った方がいいでしょう。いつだったか、不意に異様な風体の人に突然出くわして、一瞬パニックになりかけたことがありました。その時に実感しましたね、我々が日常いかに大量の情報を確認しながら生活しているかを。
しかし、マスコミの提供する情報は、そういう、生物的な欲求というよりも、多分に娯楽の要素を含んでいますね。いや、それがいかに悲しい事故や事件であっても、同情したり憤ったりする反面、危機感・悲壮感を楽しんでいる部分が必ずあるでしょう。

問題は、このような感情には習慣性があるのではということなんです。つまり、何か大事件がないと何となく物足りない。あるいは、不安になってくる。星新一氏に「ふーん現象」という秀逸なショートショートがあります。いろいろな情報に無感動というか「ふーん」としか反応できなくなった「患者」が集められ、大ニュースを捏造してこれでもかこれでもかと与え続けるが症状は一向に変わらない。困って、情報を与えなくしたら、急に不安になり、能動的に動き出すというストーリーでしたが、まさにこの通りなのではと思います。別な言葉で言えば、ハレとケでいう、「ケ」に対する耐性が落ちていると言うことになります。
困ったことに、多くの人は、自分の思い込みで世の中を組み立てようとしますね。例えば、日本において殺人事件はここしばらく、大きく件数が減っています。これは統計として動かしようがないんですが、この話をするとかなりの確率で、そんなはずはない、世の中の治安は悪くなっている、とむきになって反論するんですね。本当にむきになって。この層の人たちにとっては、殺人事件の報道があって当たり前で、ない方がおかしいということになります。

まあ、そんないろいろな理由から、マスコミの誇大報道傾向がやまないんでしょう。ですから、ダニエル・ブーアスティンが古典的名著の「幻影の時代」で指摘したような擬似イベント的なものがいつまでもなくならないんでしょうね。

但し、最近の若い人たちは、こういう傾向とは一線を画している向きもあるようです。新聞をとらなくなったという話はよく聞きますが、これってニュースに対する欲求が低くなったことを意味するんでしょうか。これに対して、マスコミが一層どぎつい報道になるとしたら逆効果でしょうね。筆者も、テレビニュースがお盆の報道とか、各党党首のコメントとかになると消音する方ですし。

多分、新聞は中部数のクオリティペーパーと、同じく中部数の大衆紙に分かれていくんでしょうね。でも、どちらにしてもインターネットとの競争、なかなかシビアでしょうね。