改めて「格差」を考える

日本では選挙が終わり、風景が大きく変わったようですね。実は当地でも日本のテレビが見られるので、開票速報を昼下がりに楽しんでおりました。

さて、今後の政治の中で、改めて格差の問題が取り上げられるように思います。確かに、今の日本の社会の中で、不安定な地位の人々が増えているのは事実でしょう。しかひ、よく、小泉改革の悪影響と言われますが、そんなに単純なものではないように感じられます。そもそも、格差自体は小泉首相時代以前から拡大していたようですから。
ですから、もっと根が深いものと考えます。

一つは、やはりバブル崩壊後の就職氷河期で、正社員のポジションをつかみそこなった層の存在があるでしょうね。この層、なまじ先輩たちのバブリーな姿を見ており、また豊かな時代に育っているだけに簡単に妥協しないという姿勢もあったでしょうか。同時にまだまだ途中入社に対し敷居が高い日本の大企業の体質も関係しているかもしれません。

しかし、筆者、本質は「中国問題」にありと考えています。いや、別に靖国がどうかというわけではなく、要するに経済大国としての中国の台頭が深くかかわっていると言いたいんです。つまり、安価で比較的優秀な労働力が利用でき、品質も向上してきた中国と競争していかなければならない。そうした中、日本の、特に製造業は二つの方向性に向かった。一つは、「知価」ですね。知的労働の価値が昔に比べて相対的に上がったということです。技術開発しかり、マネジメントしかりです。もう一つは、生産の柔軟性です。この辺は、今年の1月14日に書いたことなので繰り返しになりますが、要するに比較的低付加価値労働については、生産変動に対して柔軟に対応することで競争力を維持しようとしたわけです。
実は、筆者、最近のいわゆるエリート層には昔とは比べものにならない優秀な人材が育っていると感じています。特に、日本の国際化が進み、帰国子女の人口も膨大になる中、視野の広い人材が多数存在しているのではということですね。また、最近の中学受験熱は、教育の価値がますます高まっていることの反映ではないかと思います。

ただ、「格差」問題には、もっと深層に根源があるようにも考えています。それは、日本人の「同一性」の神話の揺らぎです。
例えば、同じ高校生でも、学校によって本当に文化が違いますね。申し訳ないですが、進学校と低レベル校では、着ているもの、持ち物、何より顔つきが違います(どぎつい化粧のせいですが)。これが同じ日本人かという気がします。
しかし、そもそも日本人の同一性って、それほど歴史が長いものじゃないと思いますよ。だって、「家」制度なんて、明治政府が人工的に作り出したものですし、生活は戦中の配給で画一化が進み(飛騨地方で米を本格的に食べ始めたのがこのころだそうです)、戦後のスーパーの全国展開でそれがさらに進行(関西でも納豆が売られるようになる)、テレビの普及で文化的にも同一性が高まったわけですね。で、実際には所得格差があったにもかかわらず、総中流意識なんていう状況にあっったわけです。
でも、やはり人工物は人工物でね。例えば家庭の教育力なんかも、相当な差がありますね。三浦展さんによると、いわゆる下層の人々に肥満が多いのは、スナックとか外食に頼った食生活で、栄養のバランスとかカロリーとかに無頓着であるためということです。で、収入が少ないのであれば自炊すればいいのにと聞くと、そもそも、この層の人たちは料理の経験がほとんどない。しっかりした家庭であれば、食育にもエネルギーを注ぎ、子供にも料理をさせたりし、何よりちゃんとした食事を作るんですが、そういう家庭環境に無いということなんですね。
ですから、「日本人」というものの骨格がそうとうぼやけてきているんじゃないかと思いますし、むしろそれが自然じゃないんでしょうか。今までのような画一性の方が不気味ですよ。
ですから、いわゆる「格差」の解消はそう簡単なものじゃないと思いますし、また、多様性はそれ自体可能性につながる面もあるかと思います。もちろん、機会の均等を図ることは依然重要とは思いますが、昔の日本を取り戻すということではなく、新たな多様性の共存のモデルを考えていく必要があると強く感じます。