東と西(その1)ひらがな的世界と漢字的世界

日本を東と西で分ける論をよく見聞きします。亡くなった網野善彦先生なんかもそのような論者でしたね。
この視点、あまり固定的に考えるのは危険でしょうが、いろいろ面白い議論が可能です。
その一つが、言葉です。東の場合は子音的で漢語的世界、西はより母音的でやまと言葉的、という見方ができると思います。
母音的・子音的の典型はマクドナルドが東での「マック」が西では「マクド」になることでしょうか。筆者は東の人間なので、関西に行くと何となく言葉がスローな感じがしますね、柔らかいとも言えるでしょう。
また、漢語・やまと言葉の例ですが、昔聞いた話に、左翼系のスローガンが東では「エンタープライズ寄港絶対阻止」といった調子に対し、西では「来るなトマホーク」といった感じになることが多いそうな。

もっとも、この区別、東京と大阪を典型として比較していると思いますが、もともとの風土というだけではなく、二つの町の歴史を考えると納得できる部分が大いにあります。
まず、東京についていえば、武士の町であったことが大きいと思います。武士は建前の世界に生きていますし、同時に行政官でもありますので、どこか官僚的になってきますね。特に江戸期からは儒学が必須となっていったわけで、どうしても漢学的な思考と言葉遣いが端々に現れることになります。この傾向は全国のどんな大名家にもあったでしょうが、町全体としての人口比は他とは違っていたと考えられます。
また、明治以降も相変わらず行政の中心であった上、新たに入府してきた薩長の勢力は、同じように武士的文化が強い土壌を持っていましたね。例えば長州は関が原で負けたため石高の割に武士が多く、また薩摩も郷士という小規模武士の存在のため、武士の人口比が高かったということがあります。また、維新の中心は下級武士だったため、余計に自分たちが劣位でないことを示すためにかえって建前的な部分を強化したようにも思います。日本軍の教条的な物言いは、ドイツあたりの影響とともに薩長のそのような心理が働いていると見なすことが可能のように思います。
それに対し、大阪は完全に商人の町ですね。司馬遼太郎に「大阪侍」という小説がありますが、確か大阪には侍が100人くらいしかいなかったとか。ですから、完全に影が薄い。また、商人は要するにビジネスマンですから、建前を飾っている暇が無く、「要するにどういうことか」を端的に語る必要があります。

この「端的に語る」というのが、日本人にとっての「やまと言葉」であろうかと思います。先ほどの左翼系のスローガンですが、西の方がすっと入ってくる感じがしませんか。多分我々にとって、漢語は未だに外国語の部分が多々あり、無意識にやまと言葉あるいはやまと言葉的レベルの認識(具体的場面イメージなど)に翻訳しており、それがタイムラグというか直接的でない感じにつながっているんでしょうね。
プロの通訳さんに聞いた話ですが、メモしたり記憶したりするのには「やまと言葉」じゃないとダメだとか。漢語だとどうしても時間がかかるし、意味があいまいになったりするということのようです。こんなところからも、我々日本人の思考経路が伺えます。

漢語的体系には、もう一つ考えておくべき面があると考えます。それは、威儀を演出する機能を持っていることです。ですから、行政文書なんかまずやまと言葉では不可能ですね。関西弁も無理でしょう。判決で「お宅さんに裁きで決まったことを伝えさせてもらいますぅ。まずー、かいつまんで言えば、お宅さんには死んでもらいますぅ。」なんて言われた日には、つい「そりゃ殺生ですわ」なんて反応したくなって、裁判の権威も何もあったんじゃないですね(今気がついたんですが、関西での漢語の使い方って何となく半分ふざけた感じがします)。
しかし、これは同時に依存性というか陶酔を誘う部分もあります。例えば、戦中の日本軍は何度と無く国防方針を立てるんですが、最後の方になればなるほど空疎な文句が頻発するようになってきます。打つ手がどんどん無くなってくる中で、方針自体がアクションの方向性というよりも戦意の鼓舞に重心が移ってくるんですね。
これは何も日本軍に限らず、どんな組織にも言えることではないかと思います。大体、内容が無い文書ほどわけのわからない言葉が並ぶように思います。あ、現在の日本では漢語だけでなく外来語もそうですね。

ところで、この間気がついたこと。左翼には「プロレタリア独裁」なる言葉がありますが、筆者、実は何のことだかさっぱり分からなかったんです。独裁的な体制を作って何がいいのか。しかし、これって一種の「世直し」ということですね。今の体制を根本から変える、そのためには一時的にしろ独裁的な政体を樹立して強権的に物事を押し進める、要するにそういうことでしょう。まあ、これを言い出したのはレーニンですが、それほど当時のロシアの状況が行き詰っていたということでしょうが、結果はご存知のとおりです。

それはともかく、漢語+外来語的体系も確かに必要ではありますが、この弊害も大きい。ですから、我々としてはその外面にだまされることの無いよう、やまと言葉に落としてその真贋を見極める。今こそ、このような思考様式が求められていると強く信じます。