歴史の中の近江商人

筆者、ビジネスマンで作る近江商人の研究会に名を連ねております。もっとも、地理的な関係で現在はもちろん幽霊会員ですが。
近江商人の代表としては、高島屋とか大丸とか伊藤忠なんかがあげられますね。
この近江商人、「買い手良し、世間良し、売り手良し」の「三方良し」の理念とかチェーン店展開、家訓に代表されるガバナンスなど、現代にもつながる数々の特徴があります。それが江戸時代に伊勢商人と並び称される成功の秘訣とされています。
しかし、そういう発想って、他の商人にもありそうな気がしますね。どうして、近江商人がそれほど発展することになったんでしょうか。

筆者には、歴史的な状況が成功に大きく与ったように思えるんですね。

そもそも、近江って交通の要衝でした。ここは都に近く、かつ日本海と瀬戸内海を結ぶ最短ルートでもあります。ですから、車借や馬借といった運送業者の拠点であり、彼らはしばしば一揆を起こしていますね。また、何より、近世以前の交通の中心であった水運については、琵琶湖の存在が大きいですね。有名な堅田水軍なんていうのがあるくらいで、いかに繁栄していたかわかります、今でも、町としては大したことのない米原に新幹線が止まるのも北陸・近畿・東海の交通の分岐にあたっているからですね。

しかし、室町・安土桃山期までは商人といえばやはり堺と博多でしょう。中国や朝鮮半島、さらに南蛮との貿易は日本国内との交易の何倍もの利益をもたらしたはずです、ですから、応仁の乱の原因の一つが勘合貿易の主導権争いといわれているのもうなづけます。そもそも、日本という国がそれほど意識されていない中では、海外との貿易と国内のそれがそれほど差があったわけではないでしょう。ですから、当時は海外貿易が主で国内が従であったとも考えられます。

しかし、こうした状況は鎖国とともに大きく変わります。もちろん、海外との貿易は続きますが管理貿易になってしまい、大きなうまみは期待できなくなったことでしょう。
こうした中、国内交易に大きく舵が切られていきます。江戸時代に東廻り航路・西廻り航路が開発されますが、これはそれまで国内交易がいかに不活発だったかを語ると思います。
こうした状況では、近江商人が持っていた国内ネットワークが強みを発揮していったことでしょう。もちろん、堺商人が大阪に移動し、天下の台所を形成していったような場面もあるわけですが、国内派としての近江商人も独特な発展をしていったと考えることができます。

もちろん、近江商人自体も時代に合わせた変化をしていったとは思いますが、もともと持っていた彼らの強みが、歴史的な状況の中で花開いたと見る事が可能かと思います。

ですから、単に当時の近江商人のパフォーマンスを現代に持ち込んで論ずるのも面白いですが、あくまで歴史上の位置づけという視点は忘れすべきではないでしょうね。