東と西(その2)なぜ家康が天下を取ったのか

陳腐なタイトルかも知れませんが、戦国大名って共通理解があるだけに、論ずる甲斐がありますね。

本日言いたいのは、家康が天下を取ったのは、官僚組織を持っていたからではないかという仮説です。

そもそも東には、官僚組織への親近性があるように思えます。もちろん、西には平安朝以来の伝統があるのですが、例えば鎌倉初期の大江広元とか三善康信のような人たちは、すっかり崩れた京都を捨てて「しくみ」による支配という夢を求めて東に旅立ったと思うんですね。何しろ、当時の王朝は知行国などに代表されるように、「何でもあり」の世界でしたから。もちろん、鎌倉とていろいろどろどろした世界はあったでしょうが、何かしら秩序への志向を感じます。

戦国期で言えば、まずは北条氏でしょうね。まあ、史料が豊富に残っているという面はありますが、実にしっかりした組織です。ですから、上杉の再三の攻撃にも耐えたんでしょう。「一字書き出し」のような、名づけにおける烏帽子親から一字を与える際の儀式化とか、地域支配における不満の吸い上げの仕組みとか、労務管理の目から見ても優れたものがあります。
また、武田なんかもその片鱗を感じます。信玄の偉大さは戦略家としてよりも、民政家としてのそれが大きいように思っていますが、そうでなければ領内の土木工事なんかは不可能であったでしょう。
家康の強みは、これらの機構を次々と接収していったところにもあると考えます。井伊の赤揃えなんかは武田の武士団をそのまま受け継いだものですし、北条の官僚組織も丸ごと継承したようです。
そもそも、家康の譜代なんかも、非常に官僚組織的です。というのは、組織が大きくなっても、彼らの石高はさほど増えていないですね。もちろん、それなりの加増はありますが、幕府開府後も大したことはないですね。官僚組織の一つの特徴は、その「無名性」にあると思っています。一人ひとりのスター性を犠牲にしても、全体としての団結を優先するわけです。

それに対して、どうも西の方は、個人個人の集合体という色彩が強いように感じてなりません。もちろん、それなりの組織はあったんでしょうが、例えば官僚的な印象の強い石田三成にしても島左近を自分の石高の半分を出して召抱えたと伝えられており、これは官僚組織として考えられないですね。やはり、組織よりも個人単位で動いていたと考えざるを得ません。
そして、そういう組織はどうしても人格的統合の色彩が強い。ですから、中心を失った後の崩壊も早いですね。信長政権も秀吉政権もそうです。それに対して、武田も北条も、信玄や氏康といった人物を失っても割と長期に存続しています。

まあ、ヨーロッパの例でも、中世にあれだけ教会が力を振るった理由は、字が読める層を教会が独占し、教会の協力無しに統治ができなかったことにありますし、王権が力を持ち出したのも独自の俸給官僚を組織してからと言われていますので、統治にはやはりある程度の官僚組織は不可欠と言えそうです。

もっとも、官僚組織はどうしても保守的になることから逃れられないことも事実です。秀吉を前にした北条の籠城策といい、幕末の徳川のありようといい、官僚組織独特の行動様式を表わしているように思います。

ですから、官僚組織を使いこなすには、その有用性と限界を正しく知ることが大事ですね。