絵画的「周辺国」

いつだったか、ポーランドポズナニ国立美術館に行ったときに、ある衝撃を受けました。
丁度、日本で言えば昭和初期にあたる時期の絵画が特集されていたんですが、これが、日本のそれとそっくりだったんです。もちろん、画家ですからそれぞれのスタイルがあるんですが、その一々がその当時の日本の画家と対応するような感じがしたんです。
要するに、「あ、これは古賀春江だ」とか「松本竣介がある」とかその他福田一郎とか曖光とか、竹橋の国立近代美術館(よく行ったものです)でおなじみの画家たちのスタイルが一対一対応のようにあったんですね。
別に、ポーランドの画家が下手と言うわけではありません。バロックロココ時代の絵は非常に技能レベルが高いですし、近代以降も歴史画のマテイコとか個性派のマルチェフスキーといった見るべき画家もいるのは事実です。しかし、上記の時期の画家たち、どこなくおどおどとしているんですね。同美術館のコレクションであるフランス絵画のコーナーに行くとその堂々としたというか屈託の無さに改めて格の違いを感じましたね。いや、フランス人がということではなく、やはりパリ画壇で名を成すのは才能が必要ということなんでしょう。
同じことは、この夏行ったコペンハーゲンでも感じました。実は、国会議事堂の見学ツアーに参加したときに、その歴代議長の肖像画にちょっとした衝撃を受けました。面白いのは、日本のそれとは違い、タッチが必ずしも保守的でない。むしろ、かなり前衛的なものが多かったんです。しかし、その下手なこと。はっきり言って、デッサンになっていませんでした。そこで、翌日国立美術館に行ってみると、ポーランドと同じような現象が。
そういえば、オスロでもストックホルムでも、そのような印象がありましたね。

思い出すのは、いつか名古屋県立美術館でロダン展をやっていまして。興味深かったのは、日本の近代彫刻の草創期の作家の作品が集められていたんです。萩原守衛とか中原悌二とかですね。彼ら、例外なくロダンの弟子だったせいもありますが、もう悲しいくらいにロダンの模倣なんですね。その原典らしきロダンの作品が日本人作家の作品の近くに並べられていて、企画した学芸員の鋭さに感心するとともに、改めて中心と周辺という構造を感じざるを得ませんでした。

現在はグローバリズムが進行したと言われていますが、やはりそれぞれの文化領域の中心というものは存在しているものと考えます。これはやはり冷静に見るべきでしょうし、すべての面で中心になるのは無理というものでしょう。ですから、日本が世界の中心となっている、あるいはなり続けることができるのはどの分野であるかを判断し、それを守り育てることはこれからの国策としても重要であると考えます。