無意識の知

神戸女学院大学内田樹さんは、「寝ながら学べる構造主義」など愛読させてもらっている方ですが、最近のブログで面白いことを書かれています。

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、どうやらわれわれの知性というのは「二重底」になっているらしいということに思い至る。
私たちは自分の知らないことを知っている。
自分が知っていることについても、どうしてそれを知っているのかを知らない。
私たちが「問題」として意識するのは、その解き方が「なんとなくわかるような気がする」ものだけである。
なぜ、解いてもいないのに、「解けそうな気がする」のか。
それは解答するに先立って、私たちの知性の暗黙の次元がそれを「先駆的に解いている」からである。
私たちが寝入っている夜中に「こびとさん」が「じゃがいもの皮むき」をしてご飯の支度をしてくれているように、「二重底」の裏側のこちらからは見えないところで、「何か」がこつこつと「下ごしらえ」の仕事をしているのである。
そういう「こびとさん」的なものが「いる」と思っている人と思っていない人がいる。
「こびとさん」がいて、いつもこつこつ働いてくれているおかげで自分の心身が今日も順調に活動しているのだと思っている人は、「どうやったら『こびとさん』は明日も機嫌良く仕事をしてくれるだろう」と考える。
暴飲暴食を控え、夜はぐっすり眠り、適度の運動をして・・・くらいのことはとりあえずしてみる。
それが有効かどうかわからないけれど、身体的リソースを「私」が使い切ってしまうと、「こびとさん」のシェアが減るかもしれないというふうには考える。
「こびとさん」なんかいなくて、自分の労働はまるごと自分の努力の成果であり、それゆえ、自分の労働がうみだした利益を私はすべて占有する権利があると思っている人はそんなことを考えない。
けれども、自分の労働を無言でサポートしてくれているものに対する感謝の気持ちを忘れて、活動がもたらすものをすべて占有的に享受し、費消していると、そのうちサポートはなくなる。
「こびとさん」が餓死してしまったのである。
知的な人が陥る「スランプ」の多くは「こびとさんの死」のことである。
「こびとさん」へのフィードを忘れたことで、「自分の手持ちのものしか手元にない」状態に置き去りにされることがスランプである。
スランプというのは「自分にできることができなくなる」わけではない。
「自分にできること」はいつだってできる。
そうではなくて「自分にできるはずがないのにもかかわらず、できていたこと」ができなくなるのが「スランプ」なのである。
それはそれまで「こびとさん」がしていてくれた仕事だったのである
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確かに、会話や文章を書いていて、なぜ自分はこんなことを考え出したんだろうと思うことって、しばしばありますね。
例えば、筆者も管理職の端くれですので、部下からの相談や提案に対して瞬時にコメントを求められることがしばしばありますが、その際、冴えた物言いってどこからともなく湧いてくる感覚があります。

内田氏のいう「こびとさん」、無意識の知とでも言い換えることが可能かと思いますが、このような存在を活性化するための方策についてはいくつか仮説を持っています。

まず、「余計な」知識や体験、特に驚きや感動を伴うそれが重要ではないかと思います。筆者、しばしば人文知というかリベラルアーツの価値に言及しています。また、芸術的なそれも大いに有用ではないかと考えています。仕事をする際には、仕事上の知識や経験も大事ですが、地位が上になればなるほど、過去の知識は邪魔になるような気がしています。部下はフレッシュな指示やコメントを求めているわけで、過去の知識のみに依拠した上司ではしらけるばかりであると思いますね。とりわけ、上の地位の人にとっては一種の感覚や広い視野が求められているわけで、これは仕事以外からの発想が不可欠でしょう。
また、無意識知には「現場性」が大切です。意識知は、かならず言語化された知という形を持っています。しかし、言語化される過程では多くの要素が捨象されているはずです。そもそも、言語には固有の限界性があるものですから。しかし、現場体験は捨象される前の多くの情報を包含しています。これは、無意識知の形態そのものと思えるんですね。
さらに言えば、無意識知が働くためには、ある程度のリラクゼーションが要りますね。例えば、ゴルフなどで打ちっぱなしでいいショットが出るときなんか、「自分にこんな力があったのか」という驚きの感覚があります。これって、「こびとさん」の働きが与っているんでしょう。しかし、いざコースに出て大たたきする際なんか、意識知のみが働いている、つまり「肩に力が入る」状態になっていますね。知的活動もそうでしょう。どこか力が抜ける部分がないといい発想も出てきようが無いように思います。

試験勉強をしているときに読む小説って、普段より何倍も面白いときがありますが、これ、いやなことからの逃避の部分とともに、「こびとさん」が腹をすかせている状態であるとも考えられます。また、筆者には仕事がきついときほど、硬い本を読みたくなる傾向がありますが、これも同じ延長線上でうなづけます。

筆者の係累に大学受験生がいるんですが、先日の台風の際に学校が休校になりまして、自分でピザの生地を仕込んで家族に食べさせたとか。まあ、程度問題ではありますが、無意識知の活性化に寄与することを祈るばかりです。