ネットワークと仏教的世界観

曲がりなりにもネットの世界に関わっていますと、個人の主体性とか自我というものの意味の軽さを感じるときがありますね。つまり、ネットを介した交流を通じて、自分の考えがどんどん発展し、変わっていく。同時に、他人にも影響を与えていくわけです。そこでは、主体としての個人よりも交流自体に実存性があるようにも感じられます。というか、「自我」という観念が非常にちっぽけに思えてくる。自己の主張よりも「参加」に価値を見出すというわけです。
こういう観念って、仏教的な世界観に通ずるところがありますね。キリスト教(特にプロテスタント)は神と自己という関係にこだわるため、存在論なんてややこしいものに拘泥するのに対し、仏教的世界観は自我なんて大したものじゃないよ、プロセスにこそ実体があるんだよと説いているように思えます。皮相的な解釈かもしれませんがね。ですから、仏教的世界観って、ネットを読み解くヒントが多く埋蔵されているように感じています。

でも、だからといって筆者、仏教に全面的に帰依する気にもなりません。昔、「法華経と原子物理学」なる本を読み、一旦は感心したものの、それがある宗教団体の必読図書だと知って鼻白んだ覚えがあります。いや、必読図書であること自体が悪いわけではありませんが、法華経が何もかも凄い、という論調についていけなかったんですね。

そもそも、お経ははるか昔の文献で、それを現代の哲学のように取り扱うのが問題なんでしょう。

例えば、現在大人気の般若心経ですが、要するに「般若経のさわり」ということで、これだけでも何かお手軽な感じがしますね。で、中身ですが、何回も「舎利子」(シャーリプトラ君)への呼びかけがあります・でもこれって、「こらぁ!シャーリプトラ、聞いとんのかおのれは」ということのようにも見えます(こういう時、関西弁は便利ですね)。で、最後は、「じゃ、今日は特別によく効く呪文教えちゃうから」てなことを言って、「ぎゃあていぎゃあてい」なんて始めてしまう。

もちろん、深遠な哲学的な解釈も可能で、だからこそ古くから多数の注釈があるんですが、どうもひねくれた筆者にはこんな風にも見えちゃうんですね。

最後は与太話になってしまいましたが、要するに、過去の「哲学」なるもの、基本的にツールとして使うべきで安易に信ずるのはやめませんかという提案でした。