それぞれの時間軸

イタリア語通訳の田丸公美子女史のエッセイ、「パーネ・アモーレ」を読んでいたら、こんな記述が。
乗ったタクシーの初老の運転手と話していたら、奥さんが冷たいという愚痴を聞くはめに。曰く、
「自分は幼くして母を亡くして母性愛に飢えている。それなのに、妻は冷たくて、大好きなおっぱいもめったに触らせてくれないんだ」。話は、もっとあるんですが、それはともかく、女史は幼くして母を亡くした運転手に同情して、「で、あなたがいくつの時にお母さんは亡くなったの」と聞くと、「21歳のとき」・・・

思い出したのは、丸谷才一氏がエッセイ「男のポケット」で書いていた話。
幕末四賢侯のひとり、宇和島伊達宗城候が老いてなお矍鑠としているので、臣下から健康法を尋ねられて曰く、「女色を慎むにあり」。臣下が。「ははあ、殿はいくつの時に慎まれましたか」と聞くと、「余は75歳をもって慎んだ」・・・・・
さすがは、生涯に18人子供を儲けた方だけのことはあります。

まあ、時間軸は人それぞれではありますがね。

聞くところによると、50歳だか60歳だかを過ぎてクラス会を開くと、若いときにさほどでもなかった老化の度合いが大きく違ってくるんだそうな。生物学的なものかその人の過ごしてきた生活史の差なのかは知りませんが、自分の生物としての可能性を信じ、それぞれの時間軸を大切にしたいものです。