自己責任ということ

最近、ぐっちーポストで経済評論家の三原淳雄さんが、「自己責任なんて言葉があるのは日本だけだ。そもそも、責任は自己にあるに決まっている」と言う旨の発言をされていました。まあ、そうかも知れません。しかし、なぜ日本にそのような言葉があり、それが問題視されるのかは考える価値がありますね。

自己責任といってすぐに思い浮かぶのは、例のイラクで人質に取られたTさん一行の事件です。あの時、筆者も思わず「それは自己責任だろう」と叫んでしまいました。その後、マスコミでも「自己責任」の名の下に、さんざんなバッシングが行われました。
しかし、問題は、あの時肉親が、「いますぐ自衛隊はゲリラの要求を入れて撤退すべき」と言ったことにあります。つまり、かれらはかねてからの自分たちの主張を通すように求めたわけで、それは違うだろうという反発につながったわけです。言い換えれば、彼ら肉親は、Tさんの救出にかこつけて自分たちの主張を通そうとしたわけで、それが激しい反応を惹起したんでしょう。国民としては、そのようなすり替えが許せなかったということになります。

結局のところ、リスクを取るということの意味が問われているとも言えそうです。女史の一行は、その目的は高邁であったかもしれませんが、治安というリスクをとることについてははなはだナイーブだったわけですね。その目的の純粋さから彼らを擁護する論調も後には見られましたが、この点の不用意さを埋め合わせるものではないでしょう。例えてみれば、苦しい賭けを助けるために小豆相場に手を出して失敗したとしても、その動機がその失敗を正当化することはできないでしょうね。

とすると、この場合の「自己責任」には、「無知の罪」が含まれうるのではないかと考えられます。残酷な言い方ですが、無知は場合により罪になるのだと思います。

どうも、日本には失敗に対するある種の寛容さを感じてしまいます。日露戦争後、日本海海戦で負けたロジェストヴェンスキーとかネボガトフとかは戦後、帰国してから裁判にかけられたそうです。戦闘指導の適切さが裁かれたわけですね。ところが、太平洋戦争後の日本軍部は戦争犯罪と言う意味では裁判があったものの、戦闘指導の面では裁きと言うか評価がなされませんでした。しかし、例えばレイテ決戦などという誤謬のおかげで何十万と言う生命が失われた責任はついに問われませんでした。

その意味では、女史たちに対する非難はある意味、正当にも見えます。しかし、マスコミの論調はちょっと的外れな部分が多かったですね。非難されるべきは肉親であって、女史たち自身じゃなかったはずです。なぜなら、彼ら自身は単なる失敗者で、それに対する正当化というか開き直りをしたわけじゃなかったですから。

まあ、このような論調は今だからできる部分もありますが、どんな事態においても論理的かつ冷静な判断はあきらめたくないですね。