改めて網羅的な知識の重要性について

昨日、トニー・ジャットの「ヨーロッパ戦後史」上下巻を読了しました。実は、取り組んでからほとんど丸4ヶ月かかってしまいました。主には2段組1000ページ以上の大著であり、また非常に内容が濃かったせいです。
しかし、実は、その間、他のものを読まなかったわけではありませんでした。基礎的なものとしては、日経ビジネス・選択・FACTA文芸春秋を日本から送ってもらっています。また、ほぼ毎日、いくつか(それもだんだん増えてくる)のWEBサイトのチェックもしていますし、このブログ書きもあります(タイピングが早くないというハンディを抱えつつ)。それから、現地語の勉強とか軽い本(あるいは過去の本の読み返し)なども入ってきます。これらを仕事からの帰宅後、単身赴任者としての生活維持をしながら行うので、どうしても純粋な意味での読書の時間が少なくなってしまいますね。まあ、読む速度が遅くなってきている可能性も否めませんが。

それはともかく、この本のおかげで、ヨーロッパの戦後というものの網羅的なイメージを持つことが出来たのは非常にありがたかったですね。

筆者、実のところ、「網羅的な知識」というものに対して、信仰に近いものを持っています。というのは、それなしに、勝手な、あるいはマスコミ的なイメージを持つことがかえって危険ではないかと考えているからです。

前にも書きましたが、筆者の歴史についての知識の出発点は、中央公論社版の「日本の歴史」26巻と「世界の歴史」16巻にありまして、これを高校生の時代に買い込み、それこそ今に至るまで何回も読み続けています。何巻かはこちらにも持ち込んでいます。
国史については、それこそこの世界の泰斗である宮崎市定氏の全集も買い込んで、密度の差はあれ、大体目は通しています。
アメリカについては、「歴代アメリカ大統領総覧」とか「アメリカ五十州を知る」なんかは繰り返し読みましたね。特に、後者は駐在中にアメリカを回る際にも非常に参考になりました。

また、大学時代には、当時の学生は暇があったものですから、東京中の名所めぐりをしていました。山と渓谷社の「アルパインガイド・東京/横浜」を買い込み、そこにあった名所旧跡およそ600箇所を実際に足を運んだんです。

しかし、筆者の網羅性への信仰は、ひところ百科事典を読みふけっていたことにあるのかと思っています。小学校5年生のときに、家にセールスマンが来まして、学研の8巻の百科事典を買ってもらったんですね。この百科辞典、漢字に全部ルビが振ってある優れものでした(おかげで漢字力が上がりましたね)が、別に子供向けではなく、大学生の時に改めて見てみると、出版当時駆け出しも含め大家が結構書いているんですね。また、これには、別巻として2巻本の「日本の美術/世界の美術」なんていう豪華本が付録としてついていまして、これも本当に繰り前し読んでいたせいで、後に京都に修学旅行に行ったときも全く不自由しませんでしたね。というか、やっと本物に会えて本当に感激したものです。読みふけって、というと何か体系的に読んでいたように感じられるかもしれませんが、そういうことではなく、何かを引いた後に、その周辺の記事のうち面白そうな部分を読み始めてしまい、その友づれで何時間も読みふけったものです。ですから、電子百科にはないメリットが紙の百科辞典にはありますね。
まったく、両親には感謝しきりです。

えらく話が長くなってしまいましたが、言いたいのは、自分が見ているものは全てではないということなんです。例えば、アメリカの西海岸にちょっと滞在しただけで、アメリカを知った気分になるなということです。本当に多様な国ですから。また、東京についてもそうです。23区だけでも、本当にいろいろな顔があります。まるで農村のようなところもありますし。しかし、修学旅行に来た生徒は、皇居と銀座・六本木、最近ならお台場とかTDLTDR:リゾートと言うべきか)だけを見て、印象を作るんでしょうねぇ。
あるいは、財界人なんかでも、漢籍に詳しく、中国のことを理解していると自負している向きが多かったとのことですが、彼らの知識は大体が周末から漢、三国、せいぜい唐までだったようです。しかし、現代中国を知るには、むしろ明や清の歴史や文学を知るべきなんですね。これなんか、むしろ誤った理解につながっていた可能性があります。やはり、全体観を持ち、自分の知識の正しい座標軸は必要なんだと思うんですね。

その意味で、改めてヨーロッパの今の全体観を持てたことは非常にラッキーであると感じている次第です。

しかし、筆者にはアジアと、特にアフリカのそれが絶対的に不足していますね。アフリカは今でも日本人全体にとってのウィークポイントであり続けています。割けるエネルギーは限られているとは思いますが、筆者も含め、少しはリカバリーが必要かも知れません。昔、アラブについて絶対的に無知であり、オイルショックであたふたした過去を繰り返さないためにも。