惜しまれつつ?

世の中には、未完成・あるいは夭折したであることで残念がられているものや人物が結構ありますね。例えば、夏目漱石の「明暗」とかモーツァルトの「レクィエム」なんかがそうですね。人物では、坂本竜馬なんかが代表かもしれません。
しかし、文芸春秋の10月号の歴史のイフという特集の中で、坂本竜馬が梅毒に冒されていたらしいことが書かれています。もしそうだとすると、その後のイメージは相当違ったものになったでしょうね。病み崩れた竜馬ではまるで話になりません。
ところで、大戦中の日本の量産戦車の最後となるのが三式戦車なんですが、初の70ミリ砲搭載でそれまでの戦車からは格段に威力が増しています。しかし、本土決戦のために温存されていたため、実線には参加しなかったんですね。そのため、戦車ファンには、実際に戦った姿を見たかったなどと書く向きがあります。
しかし、もしも例えばシャーマンあたりと戦ったら、悲惨な結果になったと思われます。まず、砲は野砲をそのまま使っていて戦車用に改良されていません。また、司馬遼太郎が書いていますが、砲塔がただの鋳鉄だったそうな。さらに、換気装置がついていなかったんですね。たかが換気装置とあなどるなかれ、これが戦車には不可欠なんですよ。というのは、大砲を撃つと、砲身に残った火薬ガスが車室に逆流して来ます。ですから、換気装置がないと車内は煙が充満して戦闘どころじゃなくなってしまうんですね。そもそも、160両しか生産されなかったようですから、ほとんど影響はなかったでしょうが。
ですから、未完成や夭折がかえって価値を高めている場合も大いにあるでしょうね。

蛇足ながら、モーツァルトのレクィエムですが、弟子のジェスマイヤーの手によって一応の完成を見ています。しかし、最後の「聖体拝領唱」は冒頭の入祭唱の調性を変えただけですし、その前の「アニュス・デイ」はどうも完全にジェスマイヤーの創作のようです。ですから、残念ながら歌っていてもスムーズじゃないですね。しかし、ジェスマイヤーが脂汗を流しながら必死で作曲したのかと思うとそれはまた別な味わいがないこともないですね。

まあ、このように、ある種の欠落は想像を掻き立てる部分があります。彫刻にトルソーなる分野が成立するゆえんですね。