純粋なるものの先鋭性とその対処

畏友、風観羽さんの最新エントリーはなかなかの力作です。一部引用すると、
*************************************
『悩む力』の中核的な仮説は、『現代人の苦悩の多くは「近代」という時代とともにもたらされたものである』、ということだ。それを証明するために、近代の入り口にあって活躍した、文豪・夏目漱石社会学者・マックス・ウェーバーについて多くのページが割かれている。
漱石の趣意は、文明というのは、世に言われているようなすばらしいものではなく、文明が進むほどに人の孤独感が増し、救われがたくなっていくーというところにありました。作品に登場する人びとを見ると、描かれている時代こそ違いますが、驚くほどいまのわれわれに通じるものがあります。 P16
ウェーバーは西洋近代文明の根本原理を『合理化』に置き、それによって人間の社会が解体され、個人がむき出しになり、価値観や知のあり方が文化していく過程を解き明かしました。それは、漱石が描いている世界と同じく、文明が進むほどに、人間が救いがたく孤立していくことを示していたのです。P17
これを最も痛烈に感じているのは、他ならぬ今の日本だろう。近代化の孤立と痛みを大家族、地域共同体、会社共同体とつなぎながら緩和して来た日本人が、最近になって近代化を先鋭化させるグローバル化を無原則に受け入れて、もう一方であらゆる共同体を解体してきたわけだから、苦悩に苛まされるのは当然だ。『近代』を究極に押し進めた資本主義は、かつては『帝国主義』に行き着き、悲惨な世界大戦に人類を陥れた。その反省のもと、共産主義社会主義的な資本主義等、近代の背後に潜む怪物を飼いならすべくさまざまな取組みが試されて来た。ところが、いつしか怪物を縛る頸城ははずれ、グローバルマネーという新たな乗り物に乗って怪物は世界中を再び破滅の淵に追い込んでしまった。
また、近代文明がもたらした貴重な恩恵だったはずの『自由』も、自由がもたらす人間性の実現を深く見つめることなく大衆に投げ出されてしまうと、自由に伴う孤独と責任の重さに耐えかねた人々がナチスドイツのような全体主義に自ら投じて行くような悲劇を招くことは、ドイツ生まれの社会心理学者エーリッヒ・フロムが名著『自由からの逃走』*2で指摘していたことだ。約70年前に発表された本書(1941年発表)だが、現代の日本にこれほどタイムリーな警鐘はないだろう。
問題自体は、多少ものを考える力のある人なら、ある程度共有できると思うが、解決策は簡単には見つからない。ゆえに、安易な復古主義やアンチ・グローバリズムが跋扈することになる。だが、この「近代的進歩」と「近代以前への復古/回顧」の往復運動は如何にも不毛で、近代以前に社会全体として帰ることなど本音のところ誰も望んでいないはずだし、かといって、「安全で豊かだが、脱色され無菌化されたユートピア」に向けて孤独な競争に投じるエネルギーは少なくとも今の日本にはもう残っていないのではないか。土俵自体から降りてしまいたい、そう考える人が今すごく増えていると私は思う。だから、特に若い人に、「経済成長」を説いても反応しない、というようなことが起こる。
********************************************
近代文明が新たな苦悩をもたらすということはずっと言われてきたことではあります。しかし、昨晩たまたま19世紀ヨーロッパ史を読んでおりまして、その中で当時の人々の「自由」への希求がいかに強く、そのためにどれほど大きな犠牲が払われてきたかを改めて実感しているところです。しかし、結果として得た自由に逆に押しつぶされてしまうというのは本当に皮肉なものです。

しかし、ふと思うのは、薬とのアナロジーです。薬はどのようなものでも、適量では有効ですがある量を越すと毒になると言われています。それだけではなく、純粋な有効成分の持つとげとげしさがあるようです。19世紀以降、薬学が急速に進歩しましたが、そのかなりが有効成分の抽出にありました。例えば、キナキナからキニーネとか、アヘンからモルフィネとか、あるいは薬ではありませんが、米ぬかからビタミンB1の抽出なんかもそうですね。有効成分の抽出によって薬効が圧倒的なものになりました、しかし、夾雑物がないということは、それだけ効果が先鋭的、つまり身体にも跳ね返るということでもあります。この辺、いわゆる和漢薬などとの違いですね。もちろん、和漢薬にも効き目が劇的なものも結構あるようですが、それは成分自体の強さによるもので、成分の「純粋性」にあるわけではないでしょう。ちなみに、筆者、食生活には大いに気を遣っていますが、はやりのサプリメントはその純粋性と大量摂取の危険を考えて一切使用しないことにしています。

それと同じように、むき出しの「自由」も、その基本的な効用にもかかわらず、純粋性の持つ尖りが人々を傷つける部分があるんでしょう。(困ったことに、「自由はいいもの」という抜きがたい通念が、グレゴリー・ベイトソン的なダブルバインド状況、つまり否定も肯定もできない立ち往生的な精神状態に追い込んだとも考えられます)
また、グローバリズムなんかもそうですね。最近の論調は反グローバリズム的なものが数多く見られますし、あれだけ海外へのあこがれが強かったにもかかわらず、海外への無関心が広がっているとも言われます。それは、グローバリズムの厳しさの部分に対する自己防衛本能のなせる業と言えるでしょう。

しかし、今、自由を捨てることはとても出来ない相談ですし、グローバリズムなしには生活できなくなっているのも事実です。特に、日本などは食糧やエネルギーが止まったら即死です。

ということは、基本方向を維持しつつ、その切っ先を緩める方策が必要になるということに必然的になります。それこそが、社会の成熟ではないかと思うんですね。

現在の「事業仕分け」なんかを見ていると、一種の人民裁判的とも評されますが、これは一種の純粋性の処方でしょう。病巣の切開にはこのような場面もあるいは必要かなとは思いますが、あくまで一時的な劇薬であって、その後は和漢薬的なミックスされた施策が必要とされます。そのような転換を行えるかどうか、見ものではあります。

それから、世の中の流れの中には、世代交代というファクターもありまして。最近、デジタルネイティブなる言葉を知りましたが、要は生まれたときからITの世界を当たり前としている世代が生まれつつあると言うことですね。先ほどの海外への関心も、無くなったのではなく、変な思い込みでのあこがれが薄れてきたという面もあろうかと思います。普段着で付き合うグローバリズムというところでしょうか。変革期には不適応が発生し得ますが、それが定着してしまえば人々はそれに対する対応策を見出すということです。

ということで、実は筆者、個々人のレベルでの将来についてはあまり悲観していません。但し、国という「入れ物」については保証の限りではありませんが。少なくとも相当な変化がありえるでしょうね。