複雑系について(続き)

前回書いてから思い出したことを少し書きます。
複雑系の関心の対象を分かりやすく説明した例をいつか読んだんですが、曰く、火のついたタバコを灰皿に置いておくと煙が立ち上ります。最初は真上に上っていき、そのあとくるくるとおどるような動きをとったあと、部屋に充満していく。このうち、最初の動きは運動方程式で説明がつきます。また、部屋に充満してしまえば、もう一つ一つの粒子の動きを追うことは意味がなくなりますので統計力学の世界になります。問題は、この間の、くるくると踊るような動きなんですね。
この動き、単なる運動ではなく、個々の粒子がばらばらな動きをしているはずなのに、そこにある種の秩序性がうかがえることが面白い点です。これって、鳥の集団が編隊飛行をするとき、どうも特にリーダーがいないらしいのにある秩序だったフォーメーションをとることにも通じます。
このように、各要素の一見ばらばらな振る舞いがある種の秩序を生むことが自己組織化と呼ばれている営みです。生命なんか自己組織化の最たるものであるとも言えそうですね。

ただ、注意すべきは、これを「秩序」と認識するのは人間であるという点なんです。ちょうど読み始めた養老孟司氏の「唯脳論」で氏は、「物体は認識に先立って存在しているが、機能(や形態)は脳の認識による」と主張しています。つまり、消化管は存在しているが、口とか肛門とかは人間が勝手にそう認識しているだけというわけです。ですから、「肛門の重さを量れ」と言われても困ってしまいます。肛門は「機能」であるので、切り取ることができません。
同じように、煙のふるまいを「秩序」と感じるのは人間がそのように認識しているだけとも言えますね。

だいたい、人間の行動や天体の動きやその他この世界のすべての現象は、古典物理学的な世界観では、各素粒子の動きがあらかじめ決まっており、そこには何ら不確定なものはないということになります。ラプラスの悪魔というあれです。これについて、コペンハーゲン学派は世界は不確定であると論じ、アインシュタインは単に人間がそれを認識できないだけであると論じました。筆者の立場は後者に近いんですが、それにしても認識できないのであれば人間にとっては同じことではあります。人間の認識の限界が明らかになっているからには、人間の手の届かない「根拠」のようなものを想定することも可能ではないかと考えています(これを人格として捉えたものが「神」ということになりますね)。

話を元に戻しますと、我々の活動自体も単なる(素)粒子の動きの反映である可能性は高い。ただ、人間の場合、自分自身に対する認識というものが存在してしまっています。どんな生命にもある種の認識はあります。つまり、外界の変化に対する対応をしているわけで、これは犬でもバクテリアでも同じことです。対応は自己保存と種族保存を目指しているんですが、まあ、犬の場合はバクテリアに比べ、自己保存の度合いが大きいとは思いますが、それでも巨視的に見て、双方を目指していることは変わりません。しかし、人間の場合は、自分自身への認識というものを持ってしまっている。それが(自)意識ということですね。ですから、自己嫌悪なんてものがありうる。霊長類くらいになるとひょっとすると自己嫌悪する可能性はゼロではないかもしれませんが、自己嫌悪するバクテリアというのはちょっと想像できません。

ですから、複雑系研究と言うもの、最後は人間の意識および認識に帰着する可能性が高いと思っています。

ちなみに、人間の認識はどうも座標系の集合ではなくパターンによるようです。座標系というのは、方眼紙のどの欄に像があり、どの欄に無いかでの認識ですが、これだと早いスピードで近づいてくる物体の情報処理なんかとてもできません(各欄のオンオフの切り替えが間に合わない)。ですから、個々の像の関係性を認識し、その後はこれを保持しデフォルメすることでトレースしていくわけですね。

そういえば、現代思想の源流の一人であるグレゴリー・ベイトソンはさかんに「パターン」の重要性を説いていましたし、前回書いた人工生命なんて、パターンそのものですね。どうも、我々、自分たちの認識方法が快いと感じる方向に向かっているのかもしれません。

どうも我ながらまとまりが無いのですが、まあ、ブログと言うもの、素材をそのままぶちまける部分がありますのでご寛恕願います。