トリスタンとイゾルデ

この週末、ベルリンでワーグナーのオペラ「トリスタンとイゾルデ」を観て来ました。

お話は、王の従者トリスタンが王に嫁ぐイゾルデを船で護送するところから始まります。実は、トリスタンはイゾルデの婚約者を討った敵であるとともに、お互いひそかに愛している。苦悩を終わらせるために毒を飲もうとしたがイゾルデの侍女が愛の薬にすりかえてしまう。薬の効果もあり、宮廷で逢引する二人を王が発見し、トリスタンは別の王の従者に自滅同様に刺される。故郷に戻った瀕死のトリスタンをイゾルデが追ってくるが、トリスタンは彼女に看取られながら息をひきとる・・・というものです。

休憩込みで5時間を越える長編なんですが、動きがほんとに少なく、まるで能のようではあります。しかし、第2幕の逢引の場面は、古今の愛の音楽の最高傑作と言われ、また、転調を繰り返すそれは、現代音楽への架け橋になったとも評されています。

しかし、それだけに、何もなしで初めて聞くと退屈でしょうね。筆者も、CDなどで相当聞き込んでいたからいいようなものですが。だいたい、オペラって、芝居として見ると、進行が遅くてまだるっこしいものです。歌舞伎と同じで、見せ場をあらかじめ知っていて、さあくるぞ、さあくるぞ、おお素晴らしい、パチパチ・・・というのが楽しみ方であると思います。そういう意味では、酒やタバコなどと同じく、はまるまでには少し手間がかかるのかも知れません(マリファナやヘロインなども本当に楽しめるまでには相当かかるのだとか・・・もちろん、直接には知りませんよ。そういう話を読んだだけです!)

さて、このトリスタンとイゾルデの物語、ワーグナーだけでなく19世紀末の芸術家たちの心を深くとらえたようです。19世紀末って、表面は非常に謹厳な時代であったにも関わらず、底流ではいろいろ乱れた部分がありまして。その偽善を暴いたのが、例えばフロイトだったんですが、この物語も、秩序とか制約にからめ取られた本能の叫びという点に共感されたんでしょう。

しかし、現代の目から見ると、このような制約って、実は本能を燃え立たせる効果があるように思えるんですね。森山良子の「禁じられた恋」という昔の歌は、「禁じられても会いたいの」というフレーズから始まりますが、本当は「禁じられているから会いたい」のかも知れません。禁断の味と言うやつですね。

制約は確かに障害ではありますが、ゲーテが「名匠は制約の中で仕事をする」と喝破したように、プロはすべからく制約を前提として作業をこなしますし、何より、制約は人を燃えさせます。突貫工事なんかには確かに祝祭性が感じられます。

こと恋愛についても、制約がなくなって更地の上で行うのはかえって味気ない部分があるのかもしれません。

マネジメントでも、適度な制約の提供は必須アイテムであるといえるでしょう。