古きよきアメリカのサウンド

昨日は、ちょっと車で遠出をする用事がありまして、ドライブをしながらフリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団のベートーベンの5番と7番のCDを聞いておりました。実は、このうちの5番は筆者が始めて買ったLPのCD版で、やはり慣れ親しんだ音はほっとさせてくれますね。
ただ、ほっとさせてくれるのは、昔から知っているだけではなく、やはり当時(1950年代)のアメリカがいかに黄金時代にあったのかと言う面もありそうです。というのは、当時らしい録音であるとともに、やはり余裕が感じられるんですね。50年代と言えば、それこそアメリカが第二次大戦を勝ち抜き、突出した力をもっていましたし、なにより精神的な自信に満ち溢れてもいました。オケの経済力もしかりで、そのころヨーロッパから来た指揮者が、アメリカのオーケストラがヨーロッパの名器の音で満ち満ちていることに感嘆しています。曰く、博物館で演奏しているようだと(ちなみに、大木裕子氏の「オーケストラの経済学」によれば今現在もっとも高価な弦楽器を持っているのは日本のN響だそうな!)。それだけでなく、その演奏の技量も高かったようです。ナチスの迫害を逃れたブルーノ・ワルターアメリカのオケを指揮した際に、「あなたたちはあまりに正確に演奏しすぎます。半分正確に、半分不正確に演奏してください」と言ったそうですが、彼らの技量と屈託のなさが偲ばれるエピソードですね。

おなじようなことは、ジュリー・アンドリュース主演の「サウンド・オブ・ミュージック」にも感じられます。リチャード・ロジャースとオスカー・ハマースタイン2世のコンビの音楽の素晴らしさとともに、その底にある何ともいえない温かみと言うか人の良さというか、これも一種の自信でしょう。また、各出演者のレベルの高いことといったら(除く父親役のクリストファー・プラマー。まあ、彼はただの役者ですからしょうがないですね)。

で、今日はサイモンとガーファンクルのアルバムを何枚か聞いていたんですが、彼らのサウンドに感じるのは、やはり当時のアメリカのしっかりした基礎です。要するに、彼らの歌には、きちんとしつけがされた都市近郊の中産階級の雰囲気がありありとあるんですね。プレスリーなんかですと、どうしても田舎っぽい印象がぬぐえないんですが、彼らはユダヤ系とはいえ(いや、ユダヤ系だからこそというべきか)インテリのコースを歩んでいますので、音楽にもそのような色彩が溢れています(ちょっと突飛な論ですが、いしいひさいち氏のマンガもやはりインテリのそれですね。筆者は氏の大ファンですが、それでも彼が「現代思想の漂流者」で幾多の思想家をなで斬りにしているのには改めて驚倒させられらました)。それとともに、いかにも確固たる家庭に育ったことがある種の枠組みを与えているように聞こえてなりません、

どうもそれ以降のサウンドには、以上のような自信とか確たる基礎をあまり感じないんですね。もちろん、あまたの才能を輩出し続けていはいますが、演奏家やクリエイターを知らず知らずのうちに支えている基礎のようなものはどうも消えうせているように思えてならないんです。

ともあれ、それらのサウンドたちは古きよき時代に浸らせてくれる貴重なものであるのは確かです。